7月13日 [愚管抄]
俄に頼政が孫の頼茂大内に候しを、謀反の心起して我将軍にならんと思たりと云事あ
らはれて、在京の武士ども申て、院へ召けれどまいらざりければ、内裏に火さして大
内やけにけり。左衛門尉盛時頸を取て参りにけり。伊豫の武士河野と云をかたらいけ
るが、かうかうと申たりけると聞へき。
[北條九代記]
勅定に依って頼茂朝臣(右馬権頭、頼政卿孫)を誅す。仍って仁寿殿回禄し、代々の
重宝焼失しをはんぬ。
[保暦間記]
左馬頭頼茂朝臣(源三位頼政孫)将軍の望有に依て謀反を起す。折節大内守護なる間、
内裏に立籠る。時刻を移さず責られければ、仁寿殿に籠て自害しをはんぬ。其時代々
仙洞の重宝失にけり。
[百錬抄] 丙午
申の時、洛中の武士馳走す。これ院宣に依って右馬権の頭源頼茂朝臣を追討せらるる
なり。彼の朝臣大内を守護するの間、勇敢の輩数輩諸門を閉め、ただ承明門を開け合
戦す。官軍多く手を負う。頼茂火を殿舎に懸け焼死すと。宜陽殿・校書殿・塗籠累代
の御物等皆灰燼と為る。
7月19日 壬子 晴
左大臣(道家公)の賢息(二歳、母は公経卿の女、建保六年正月十六日寅の刻誕生)
関東に下向す。これ故前の右大将後室二品禅尼、将軍の旧好を重んぜんが故、その後
嗣を継がんが為、これを申請するに依って、去る月三日下向有るべきの由宣下す。同
九日春日社に参る(乗車、殿上人一人・諸大夫三人・侍十人共に在りと)。同十四日
左府に於いて魚味の儀有り。同十七日院参、御馬・御劔等を賜う。同二十五日、一條
亭より六波羅に渡り、則ち進発すと。今日午の刻鎌倉に入り、右京権大夫義時朝臣の
大倉亭(郭内南方に、この間新造の屋を構う)に着す。
その行列
先ず女房(各々乗輿、下臈先と為す)
雑仕一人 乳母二人 卿の局 右衛門の督の局 一條の局、(この外相州室)
先陣の随兵
三浦太郎兵衛の尉 同次郎兵衛の尉 天野兵衛の尉 宇都宮の四郎
武田の小五郎 小笠原の六郎 相模の小太郎 幸嶋の四郎
陸奥の三郎 結城左衛門の尉
狩装束の人々
三浦左衛門の尉 後藤左衛門の尉 葛西兵衛の尉 土屋左衛門の尉
千葉の介 筑後左衛門の尉 陸奥の次郎 小山左衛門の尉
駿河の守泰時 武蔵の守義氏
若君の御輿
佐貫の次郎 波多野の次郎 山内の彌五郎 長江の小四郎
木内の次郎 渋谷の太郎 本間兵衛の尉 飯富の源内
土肥兵衛の尉 高橋太九郎
已上歩行、輿の左右に列立す
殿上人
伊豫少将實雅朝臣
諸大夫
甲斐右馬の助宗保 善式部大夫光衡 籐右馬の助行光
侍
籐左衛門の尉光経 主殿左衛門の尉行兼 四郎左衛門の尉友景
医師
権侍医頼経
陰陽師
大学の助晴吉
護持の僧
大進僧都寛喜
以上十人京都より供奉す
後陣の随兵
嶋津左衛門の尉 中條右衛門の尉 足立八郎左衛門の尉 天野左衛門の尉
伊東左衛門の尉 遠山左衛門の尉 堺兵衛太郎 長江の八郎
加地兵衛の尉 橋左衛門の尉 相模の三郎 兵衛大夫
三浦の次郎 河越の次郎 伊豆左衛門の尉 小山の五郎
後陣
相模の守時房
酉の刻政所始め有り。若君幼稚の間、二品禅尼理非を簾中に聴断すべしと。
7月25日 戊午 晴
酉の刻、伊賀太郎左衛門の尉光季の使者京都より到着す。申して云く、去る十三日未
の刻、右馬権の頭頼茂朝臣を誅し、子息下野の守頼氏を虜えをはんぬ。折節若君御下
向の間、故に飛脚を止め、今に子細を啓さずと。頼茂叡慮に背くに依って、官軍を彼
の在所昭陽舎(頼茂大内を守護するの間この所に住す)に遣わし合戦す。頼茂並びに
伴類右近将監籐の近仲・右兵衛の尉源の貯・前の刑部の丞平の頼国等、仁寿殿に入り
籠もり自殺し、郭内の殿舎已下に放火す。仁寿殿の観音像・応神天皇の御輿、及び大
甞會御即位の蔵人方往代の御装束・霊物等悉く以て灰燼と為す。朔平門・神祇官・官
の外記廰・陰陽寮・園韓神等その災を免かると。
7月26日 己未 晴
今暁若宮の祈り有り。大学の助安部晴吉の如き七瀬祓いを奉仕す。
7月28日 辛酉 晴
宿侍等の定め有り。前代に於いては、然るべき輩皆西侍に着到すと雖も、当時郭内手
廣きに及ばざるの間侍無し。仍って各々小侍に候し、昵近の守護せしむべきの由と。
則ち今日小侍別当を始めて補す所なり。陸奥の三郎重時(年二十二)と。