1219年 (建保7年、4月12日改元 承久元年 己卯)
 
 

9月6日 戊戌
  伊賀次郎左衛門の尉光宗政所執事に補す。信濃の前司行光病痾危急に依って辞退の替
  わりと。
 

9月8日 庚子 晴
  巳の刻前の信濃の守従五位下藤原朝臣行光法師(法名)卒す(年五十六)。午の刻伊
  豆の国走湯山の衆徒の使い到着す。去る六日丑の刻、当山の中堂・講堂天火の如き降
  り焼失すと。
 

9月22日 壬寅 晴
  申の一点より戌の四刻に至るまで鎌倉中焼亡す。火阿野の四郎の浜の宅の北辺より起
  こる。南風甚だ利く、上は永福寺惣門より、下は浜の庫倉前に至り、東は名越山の際
  に及び、西は若宮大路を限る。右大将軍以来、未だこの例有らずと。二品禅尼の亭(右
  府旧跡)並びに若君の居所讒に余炎を免がれをはんぬ。