1220年 (承久2年 庚辰)
 
 

4月3日 壬戌
  大夫の尉惟義の使い京都より到来す。去る月二十二日、造内裏木作り始め、上卿・参
  議・弁・大夫史等、行事仮屋に着し行事すと。また同二十六日、清水寺本堂焼失する
  の由これを申す。当寺は、桓武天皇の御宇延暦十七年戊寅七月二日、大納言田村麻呂
  私宅を壊ち渡し草創すと。
 

4月13日 壬申 天晴 [玉蘂]
  寅の刻ばかり、祇園地を払い焼亡す。希代の重事なり。延久・久安この災有りと。

[百錬抄]
  丑の刻、祇園社焼亡す。御殿並びに東面廊・南大門・薬師堂已下皆灰燼と為る。
 

4月20日 [玉蘂]
  資頼朝臣書を送りて云く、来二十六日行啓なり。而るに件の日御方違えの行幸有るべ
  し。同日の条憚りの有無如何。答えて云く、例を外記に問うに、禁忌の有無を在継朝
  臣に問うべしてえり。有長を以て使いと為し、平家記の事光盛卿の許に仰せ遣わす。
  彼の卿多く平家を持つなり。供与すべきの返報有り。
 

4月27日 丙戌 [玉蘂]
  八條東洞院に於いて、雑人高声に炎上の由を称す。遙かに北方を望むに、乾方に当た
  り院の御方並びに内裏の辺か。仍って車を馳せ帰る。雑人云く、中御門町に、火起こ
  る為り。東風頻りに扇き、院の御所風下たりと。(略)則ち参院す(高陽院)。院御
  幸。焼亡の所、陽明門・左近府・東獄等皆悉く焼亡す。風頗る北に靡くの間、院の御
  所免れをはんぬ。右大将勘解由小路の第焼亡す。

[百錬抄]
  中御門町焼亡す。陽明門並びに左近府・左兵衛府の門同じく焼亡す。