1221年 (承久3年 辛巳)
 
 

10月1日 癸丑 [百錬抄]
  炎上有り。殿下の御所(土御門西洞院)・右大将亭(一條町)同時に両所放火すと。
 

10月2日 壬子
  戌の刻地震
 

10月7日 [皇帝紀抄]
  武士等、秀康朝臣・秀隆等これを搦め取り、六波羅に将て来たる。
 

10月12日 壬戌
  六波羅の飛脚到着して云く、去る月二十五日、今度合戦の張本能登の守秀康・河内判
  官秀澄、南都に隠居するの由その聞こえ有るに依って、相州の計として、家人等を遣
  わし捜し求めるの間、件の両人逃げ去りをはんぬ。衆徒等蜂起し、夜討人と称し、相
  州の使者を囲み合戦す。その使者無勢に依って、悉く以て殺戮せらる。讒かに残る所
  の僮僕両三輩、六波羅に馳せ還り事の由を訴う。仍って相州・武州相談し、翌日(二
  十六日)午の刻、在京近国の勇士数千騎を相催し、南都に発向す。衆徒これを聞き太
  だ周章し、木津河の辺に来合す。先ず使者を以て愁いて云く、軍兵南都に入らば、平
  家大伽藍を焼失するの時に異ならざるか。然れば悪党等を捜し尋ね虜え献るべしてえ
  り。懇望の旨に就いて、優恕の儀を成し帰洛しをはんぬ。今月二日、南都より秀康の
  後見を搦め出す。当時沙汰有り。また三日夜半、殿下及び右幕下の亭焼亡す。前の殿
  下の亭同時に放火せしむと雖も打ち消す。凡そ叛逆の余殃未だ尽きずと。
 

10月13日 癸亥
  京中の警固並びに余党人等の刑法の次第沙汰有り。六波羅の使いを召し当座に於いて
  示し含むと。進士判官代隆邦奉行たりと。武州京都に於いて、この程伽藍を草創す。
  これ且つは関東の若公並びに二品禅尼息災の為、且つは今度合戦の間滅亡の貴賤得脱
  の為なり。供養の事、今日内々青蓮院宮僧正坊を申し談じ、その門徒中、叛逆に與せ
  ざるの衲衣を以て、唱導に用いるべきの由と。

[北條九代記]
  武州二品の現当を祈らんが為、東山高橋南の辺に於いて塔舎を建立す。今日供養を遂
  ぐ。大阿闍梨眞性僧正二十箇日にて造りをはんぬ。仍って二十日塔と謂う。
 

10月16日 丙寅
  六波羅の飛脚到着して云く、去る六日寅の刻、河内の国に於いて秀康・秀澄等を虜え
  る。これ彼の後見の白状に依ってなり。同八日六波羅に到ると。天下乱逆の根源この
  両人の謀計より起こる。重過の所当、責めて余り有るかと。
 

10月23日 癸酉
  武州建立の堂舎、今日供養の儀有り。曼陀羅供なり。