1222年 (承久4年、4月13日改元 貞応元年 壬午)
 
 

1月1日 庚戌 霽
  奥州例に任せ椀飯を献らる。若君南面妻戸の間に出御す。讃岐中将(右京兆婿)参進
  し、御簾を巻き上げらる。人々これに謁し奉る。先ず御剱(錦の袋に入る)を進せら
  る。足利武蔵の前司義氏これを持参す。次いで御弓箭は駿河の前司義村。次いで御行
  騰(沓在り)は小山左衛門の尉朝長。次いで御馬五疋、一の御馬は駿河小太郎兵衛の
  尉朝村・同三郎光村これを引く。
 

1月2日 辛亥
  椀飯(足利前の武州これを進す)。御剱は駿河の前司義村、御調度は後藤左衛門の尉
  基綱。御行騰は中條右衛門の尉家長。御馬五疋。
 

1月3日 壬子
  椀飯(前の大膳大夫入道覺阿沙汰す)。御剱は陸奥修理の亮。御調度は結城左衛門の
  尉朝光。御行騰は伊賀次郎左衛門の尉光宗。

[皇帝紀抄]
  天皇御元服。加冠(太政大臣)。理髪(右大臣)。
 

1月7日 丙辰 天晴、南風烈し]
  椀飯(結城左衛門の尉朝光これを進す)。御剱は蒲判官代佐房これを持参す。
  今日御弓始めの儀有り。
  射手
   一番 駿河の次郎泰村     伊東左衛門次郎祐朝
   二番 小笠原の六郎時長    横溝の五郎資重
   三番 橘新左衛門の尉公幸   横溝の六郎義行
   四番 佐々木加地の八郎信朝  本間の四郎光忠
   五番 佐原の太郎経連     工藤中務次郎長光
 

1月8日 丁巳
  椀飯(中條右衛門の尉家長これを進す)。御剱は陸奥修理の亮。今日心経会なり。導
  師・請僧は鶴岡の供僧等例に任せ参勤す。
 

1月10日 己未 去る夜より雪降る(積もること五寸)
  今日奥州大庭野に出しめ給う。駿河の前司義村已下扈従す。
 

1月16日 乙丑 晴
  讃岐中将室の産祈り、奥州の御亭に於いて千度祓い有り。人数五人(去年冬に同じ)。
  事訖わり禄を給う。人別上絹三疋。布衣の青侍等これを役す。
 

1月*日 [河内金剛寺文書]
**入道道助親王下文
  入道二品親王廰下す 河内国金剛寺所司等
   早く駿河次郎泰村が下知状に任せ、守護所使乱入狼藉を停止せしむべき事、
    副え下す
     泰村請文並びに下知状等
  右、守護所使等ややもすれば寺領に乱入し、狼藉煩いを致すの由、訴え申すに依って、
  子細を触れ仰せらるるの処、泰村が下知状此の如し。状に任せ、今に於いては、早く
  彼等が自由乱入を停止し、寺家を安堵し、恒例の仏事を興行せしむべきの状、仰せの
  所件の如し。宜しく承知すべし。件に依ってこれを用ゆ。以て下す。
    承久四年正月 日        公文大法師(花押)
                    院司威儀師(花押)
  別当権少僧都
    権少僧都(花押)
    法  眼(花押)
    法  眼(花押)
    法  眼(花押)