1222年 (承久4年、4月13日改元 貞応元年 壬午)
 
 

2月1日 庚辰
  巳の刻雷電数声、甚雨。
 

2月6日 乙酉
  南庭に於いて犬追物有り。若君御入興。この事また讃岐羽林殊に庶幾し申し行わる。
  奥州・足利前の武州以下群参見物す。犬二十疋、射手四騎なり。相構えて勝負を決す
  べきの由、別して仰せ出さるるの間、各々箭員を争うの処、面々五疋これを射る。始
  め十疋の内、一疋毎に、今度の犬は某射るべきの由、次第主に付け仰せ出さる。その
  人の箭必ずこれに中たる。後十疋の時は、射手次第この犬は預からしむの由自称す。
  仰せに依ってなり。また相違無く等巡に射手これを中てる。旁々希代の珍事たるの由
  人々美談す。駿河の前司義村検見を加う。嶋津三郎兵衛の尉忠義これを申し次ぐ。
  射手
   小山新左衛門の尉朝長  氏家の太郎
   駿河の次郎泰村     横溝の六郎
 

2月9日 戊子
  讃岐羽林の室平産の祈祷等を行わると。
 

2月12日 辛卯 霽
  鶴岡神事例の如し。今日申の刻讃岐中将の室平産す(女子)。験者は大進僧都観基、
  医師は権侍医頼経朝臣、祓いは陰陽権の助国道朝臣・主計大夫知輔・陰陽大允親職等
  なり。各々禄を給う(五衣)。奥州・式部の丞朝時主・修理の亮重時主・駿河の前司
  義村以下群集せらる。