1223年 (貞応2年 癸未)
 
 

5月4日 丙午
  若君御方の御物忌なり。周防の守親實これを奉行す。
 

5月5日 丁未
  二品若君の御方に渡御す。奥州参られ、御酒宴有り。歌女等を召さる。各々芸を施し
  太だその興有り。奥州衣装を解き纏頭せらる。駿河の前司・伊賀次郎左衛門の尉以下
  皆此の如しと。
 

5月8日 [百錬抄]
  一條殿(院御所)に行幸す。御不予危急の聞こえ有り。
 

5月12日 甲寅
  申の刻大地震。
 

5月14日 丙辰
  若君の御物忌なり。物忌の字は札に注し御簾等に付く。護持僧大進僧都観基参籠す。
  三條蔵人親實云く、禁裡仙洞の式は御物忌の札を置かるるの上、人の出入を憚らざる
  の由これを申すと雖も、奥州固く忌ましめ給うべきの旨申せらるるの間、台所番衆並
  びに侍大番勤仕の輩は参籠すべし。その外近所・上台所等の人々の出入は、一切これ
  を停止す。向後御物忌はこの式を守るべきの由と。

[百錬抄]
  太上法皇崩御。後高倉院と号し奉る。北白川に葬る。天下亮闇。
 

5月18日 庚申 陰
  相州・武州の飛脚京都より到来す。去る十四日午の刻、大上法皇持明院殿に崩御する
  の由これを申す。御腫物に依って数月御悩なり。尊号の後讒に三箇年、御年四十五と。
  奥州二品の御方に参り、この由を申し給うと。
 

5月19日 辛酉 朝雨降る
  二品の御亭に於いて、駿河の前司の如き沙汰有り。暫く御作事等を閣かるべきの由定
  めらる。彼の崩御の事に依ってなり。伊賀三郎左衛門の尉光資御訪いの使節として上
  洛すべしと。
 

5月24日 丙寅
  若君二品の御方に渡御す。駿河の守(重時)・三浦駿河の次郎等供奉す。これ常儀な
  り。
 

5月26日 [長門三浦家文書]
**平子西仁譲状案
  譲渡 所領壹所の事
   周防国仁保庄地頭職の事
  右、件の職は、平重資譲与する所実なり。仍って後日の沙汰として、譲渡する所なり。
  且つは将軍家御成敗を仰ぐべきの状件の如し。
    貞応二年五月二十六日      地頭沙彌西仁(在判)
 

5月27日 己巳
  土御門院土佐の国より阿波の国に遷御有るべきの間、祇侯人数の事これを尋ね承り、
  注進すべきの旨、阿波守護小笠原の彌太郎長経の許に仰せ遣わさる。四月二十日御迎
  えの為すでに人を土州に進せをはんぬるの由、長経言上する所なり。今日若君息災の
  御祈祷等、内外共これを行わると。