1223年 (貞応2年 癸未)
 
 

6月12日 癸未
  伊豆の国走湯山の常行堂造営の事、柱に於いてはすでに立てをはんぬ。来十九日上棟
  すべきの由、寺家行事所より言上す。二品の御亭に於いて、武蔵目代次郎兵衛の尉惟
  忠の奉行としてその沙汰有り。而るに陰陽道に問わるるの処、上棟の事、土用中はそ
  の憚り有るべきの由、親職これを申す。七月十一日壬子・十二月二日庚子宜しかるべ
  きの由、晴賢これを申す。而るに十一日壬子は八専なり。堂舎を立てるの先例これ有
  るやの由、行西申せしむるに依って、晴賢に尋ね下さる。また申し云く、以前すでに
  立柱をはんぬ。その上八専の日、或いは仏閣を立て、或いは供養を遂ぐ。その例繁多
  と。仍って日時の風記治定せしめこれを召し置かると。
 

6月15日 [新編追加]
**官宣旨
  左弁官下す   五幾内諸国七道
   自今以後庄公田畠の地頭得分、十町別免田一町を給わり、並びに一段別加徴五升を
   充てしむべき事、
  右、頃年勲功の賞に依って地頭職に居るの輩、各々涯分を超え恣に土宜を侵す。茲に
  因って、国衙と云い、庄園と云い、事を彼の濫妨に寄せ、勤めをその乃貢に懈る。是
  非相賛・真偽互雑か。然る間無止の仏神事、空しく以て陵替す。有限の公私領、地利
  を弁ぜず。天下の衰弊、職として斯くの由。方今四海すでに定まり、万方靡くこと然
  り。誰か宗廟社稷の重事を軽ぜん。誰か五幾七道の済物を掠めん。然れば則ち一に庄
  公の愁訴を休めんが為、一に地頭の勤労を優ぜんが為、旁々折中の儀に従い、須く向
  後の法を定めん。文武の道一を捨てるは不可の謂われなり。左大臣宣べ、勅を奉る。
  庄公田畠の地頭得分、十丁別免田一丁を賜わり、一段別加徴五升を充つ。自今以後に
  於いては、制符を厳守し、宜しく遵行せしむべしてえり。諸国承知すべし。宣に依っ
  てこれを行う。
    貞応二年六月十五日       大史小槻宿祢
  中弁藤原朝臣
 

6月20日 辛卯 天晴風静まる
  今日、駿河の国富士浅間宮造替遷宮の儀なり。奥州御経営を為すと。
 

6月26日 丁酉 天晴
  五仏堂に於いて修せらるる所の千日御講今日結願せらる。導師は松殿法印、請僧十二
  口。二品御参堂と。
 

6月28日 己亥 陰
  故伊賀大夫判官光季の子息四人二品の御亭に参る。皆十歳未満の幼童なり。簾下に召
  しこれを覧る。奥州その砌に侯し給う。悉く光季の顔貌に相似るの由、御悲涙を催せ
  らる。亡父の跡を継ぎ、忠直を励ますべきの由仰せ含めらる。今日走湯山の常行堂上
  棟の事、七月十一日の八専猶憚り有るべきの由、重ねてその沙汰有り。陰陽師に尋ね
  られ、十一月二日以前に於いては、然るべきの吉日無し。八月八日戊寅を以て宥め用
  いらるべきの由、親職・晴賢等これを申すと。

[高野山文書]
**関東御教書
  高野山検校法橋申す吉野悪党の事、尤も守護人家連に仰せ、厳制を加えらるべきなり。
  而るに家連当時関東ニ祇候す。且つは以てこの子細を含めらるるなり。然れども守護
  の沙汰を待たず、先ず早く吉野執行に相触れ、禁制を加うべきなり。もし悪党高野に
  乱入せしめば、執行に於いては咎を遁るべからず。殊に御沙汰有るべきの由、下知せ
  しむべきなり。兼ねてまた高野にも風聞の説に随い、細々申すべきの由、御下知有る
  べきの旨、宮僧正御坊に言上すべきなりてえり、仰せに依って執達件の如し。
    六月二十八日          前の陸奥の守(花押)
  相模の守殿
 

6月30日 辛丑
  六日祓いを行わる。晴賢これを奉仕す。三條蔵人親實陪膳たり。周防の前司親實これ
  を奉行す。