1223年 (貞応2年 癸未)
 
 

7月6日 丁未
  去々年の合戦の賞に依って、新補せらるる地頭等得分の事、十町別免田一町・一段別
  加徴米五升たるべきの由、去る月十五日宣下せらるる所なり。彼の状到来するの間、
  その旨に任せ遵行せしむべきの由、今日施行せらる。隆邦・清定奉行たり。

**関東御教書
   去々年の兵乱以後諸国庄園・郷・保に補せらるる所の地頭沙汰の條々
  一 得分の事
   右、宣旨状の如きは、仮令、田畠各々拾壹町の内、十町は領家国司分、一町は地頭
   分。広博狭少を嫌わず、比率法を以て免じ給うの上、加徴段別五升を充て行わるべ
   しと。尤も以て神妙、但しこの中本より将軍家の御下知を帯し、地頭輩の跡として、
   没収の職として、改補せらるるの所々に於いては、得分縦え減少と雖も、今更加増
   の限りに非ず。これ旧儀に依るべきが故なり。しかのみならず、新補の中本司の跡、
   得分に至る尋常の地は、また以て成敗に及ばず。只得分無きの所々を勘注し、宣旨
   の旨を守り、計り充てしむべきなり。仍って各々賦給成敗すべきの状なり。且つは
   これこの状を帯びざるの輩、張行の事出来せば、交名を注し申さるべし。状に随い
   過断せらるべきなり。
  一 郡内寺社の事
   右、件の寺社は、多くこれ領家の進止たるか。若くはまた地頭の如き氏寺・氏社は
   私の進止か。所詮先例に任せ、今更自由の新儀を致すべからず。
  一 公文・田所・案主・惣追捕使・有司等の事
   右、件の所職は、随所に或いはこれ在り、或いはこれ無く、必ず一様に非ずと雖も、
   所詮先例に任せ、領家・国司進止の職に於いては、地頭更に妨げを致すべからず。
   若くはまた乱逆の時、指せる犯過の跡たるに依って、その職を兼ねると雖も、旧の
   如く領家・国司の所務に従うべし。
  一 山野河海の事
   右、領家国司方・地頭分、折中の法を以て、各々半分の沙汰を致すべし。しかのみ
   ならず、先例限り有る年貢物等、本法を守り違乱すべからず。
  一 犯過人糺断の事
   右、領家国司三分の二・地頭三分の一、沙汰を致すべきなり。
  以前の五ヶ條、且つは宣下の旨を守り、且つは時儀に依って、計り下知せしむべきな
  り。凡そこの状を帯せざるの輩、もし事を左右に寄せ、猥りに張行の事出来せば、領
  家・国司の訴訟断絶すべからず。交名到来に随い、過断せしむべきなり。この旨を以
  て、兼ねて普く披露せらるべきなりてえり。仰せの旨此の如し。仍って執達件の如し。
    貞応二年七月六日        前の陸奥の守(判)
  相模の守殿
 

7月7日 [高野山文書]
**六波羅御教書
  高野山検校法橋申す吉野悪党等の間の事、仰せ下され候の趣を以て、関東に申せしめ
  候の処、御返事此の如く候、この上は、急ぎ御下知有るべく候や、この旨を以て御披
  露有るべく候、恐惶謹言。
    七月七日            武蔵守(花押)
                    相模守(花押)
  進上 肥前律師御房
 

7月9日 庚戌
  薬師堂谷の辺に独りの住僧有り。浄密と号す。件の坊の前庭に於いて優曇花開敷の由
  風聞す。鎌倉中の男女これを観んが為群を成す。二品より遠藤左近将監為俊を遣わし
  披見するの処、芭蕉の花かの由これを申すと。
 

7月17日 [百錬抄]
  今夜、瀧口光保大炊御門油小路に於いて本鳥を切らると。傍官一人相伴す。誰人の所
  為を知らず。衆一人に於いては逐電し、その災いを遁れると。後日沙汰有り。一労以
  元の所行なり。使の廰に召し出さると。
 

7月25日 丙寅 晴
  奥州の御願として、若宮の廻廊に於いて一日百部の法華経を書写せらる。供養導師は
  当宮の別当なり。卯の刻始行し、亥の一点事をはんぬ。
 

7月26日 丁卯 晴
  二位家新造の御亭(御堂御所と号す)の御移徙なり。水火を略せらる。陰陽大允親職
  反閇に侯すと。周防の前司親實・判官代佐房御輿寄せたりと。