1223年 (貞応2年 癸未)
 
 

10月1日 庚午
  北陸道守護の成敗條々の事、聊か違聞有るに依るの間、殊に尋ね沙汰せしむべきの由、
  式部の丞朝時主に仰せらると。
 

10月4日 癸酉
  奥州請いに依り駿河の前司義村の田村別庄に向かわる。苅田右衛門の尉已下多く以て
  参会す。駿河の守人々を相催し若君の御方に侯す。
 

10月5日 甲戌
  若君御壺に出御し給う。去る四月烏矢の後、この事を止められをはんぬ。而るに殊に
  興宴の御志有るの由申せらる。二品許諾を蒙らしめ給うと。
 

10月6日 乙亥
  奥州田村より帰らしめ給う。駿河の前司扈従す。直に若君の御方に参られ、引出物の
  馬(黒駮一寸)を以て即ちこれを引き進せらる。殊に御賞翫と。
 

10月13日 壬午
  駿河の守の奉行として、近々に祇侯すべきの仁を撰び結番せらる(これを近習番と号
  す)。
  一番 駿河の守     結城七郎兵衛の尉    三浦駿河の三郎
  二番 陸奥の四郎    伊賀四郎左衛門の尉   宇佐美三郎兵衛の尉
  三番 陸奥の五郎    伊賀六郎右衛門の尉   佐々木の八郎
  四番 陸奥の六郎    佐々木右衛門の尉三郎  信濃次郎兵衛の尉
  五番 三浦駿河の次郎  同四郎         加藤六郎兵衛の尉
  六番 後藤左衛門の尉  嶋津三郎兵衛の尉    伊東六郎兵衛の尉
 

10月21日 庚寅
  佐々木兵衛太郎入道西仁申して云く、兒島宮御所警固の事、三男時秀を改め次男實秀
  に示し付けをはんぬと。これ兼日、此の如き沙汰を致すべきの由仰せ下さるるの処、
  請文遅到す。物儀に叶わざるの旨御気色有りと。
 

10月25日 [播磨廣峰神社文書]
**関東下知状
   早く先下知に任せ、祇園本社播磨国廣峰社山上坂本守護使乱入を停止せしむべき事、
  右、解状の如きは、建保四年行光奉書に任せ、去年十一月御下知状成られをはんぬ。
  然る間、今年四月守護人小山判官朝政施行を成さしむの処、代官猶これを用いず。所
  司・神官住房私宅に乱入せしむに依って、散々煩いを致せらるの條、以ての外無道な
  りと。事もし実ならば、御下知に背き、守護代の入部、甚だ穏便ならず。早く先下知
  に任せ、彼の使の乱入を停止すべきの状、仰せに依って下知件の如し。
    貞応二年十月十五日       前の陸奥の守(花押)