12月3日 辛未 晴
丑の刻奥州の御亭光物有り。即時大倉薬師堂に於いて御祈りを始行せらる。神馬(片
岡と号す名馬なり)を鶴岡に奉り給う。また七座の招魂祭有り。
12月20日 戊子 霽
未の刻奥州若君の御方に参り給う。駿河の前司義村・隠岐入道行西・出羽の守家長等
参上す。陰陽師六人を召さる。これ御所造営の事京都に尋ねらるるの処、日時勘文を
帯すの飛脚、夜前到来するの間、猶以て覆問せんが為なり。件の勘文に云く、十一月
二十九日未の刻を以て最吉の由、七人(泰忠朝臣・定平・宣俊・廣俊・泰基・忠光・
在友)同心連署す。而るに東使入洛の日は、今月十日申の刻なり。彼の日時を以てこ
れを問わると。当座に於いてこの七人の連署状を披らく。信賢最吉の由占い申す。知
輔・泰貞半吉の由申す。国道朝臣・親職・忠業不快の旨申すの間、奥州子細を問わし
め給う。国道等申して云く、詞を以ては述べ難し。七人の御占形を賜わり、勘文を進
すべし。彼を以て京都に遣わさるべしと。仍ってこれを下さる。各々退出す。民部大
夫康俊・籐内所兼佐等これを奉行す。今夜子の刻月と螢惑同変す(相去ること二尺三
寸の所)。