1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)
 
 

5月4日 庚子 晴
  御手習い有り。二品扶持し奉らしめ給う。女房数輩参侯すと。
 

5月8日 甲辰
  土佐の守帰洛す。去る四日出門。若君より御馬を引き賜う。三浦駿河の三郎光村御使
  たり。奥州同じく御馬・帷等を遣わさる。その外の人々多く以て餞送すと。
 

5月13日 己酉 晴
  近国の浦々大魚(その名分明せず)多く死んで波上に浮かぶ。三浦崎六浦前浜に寄る
  の間充満す。鎌倉中の人挙ってそれの完を買い、家々これを煎じ彼の油を取る。異香
  閭巷に満つ。士女これを謂うに、旱魃の兆、先規に無し。直なる事に非ずと。
 

5月15日 辛亥 晴
  炎旱旬を渉る。仍って祈雨法を始行せらる。所謂百壇の不動供・一宇金輪・水天供・
  降雨法・仁王観音等の御読経なり。周防の前司親實奉行たり。
 

5月16日 壬子 天晴
  若君二品の御方に渡御す。駿河の守・周防の前司・少輔判官代・駿河の次郎・信濃の
  四郎・左衛門の尉等供奉す。
 

5月18日 甲寅 晴
  炎旱の御祈り、何れの祭礼を修せらるべきや否やの事、奥州方に於いて重ねてその沙
  汰有り。五龍祭たるべきかの由、隠岐入道行西これを申すと雖も、この境に於いて未
  だ勤行の例無きの上、天地災変・属星・水曜等の御祭宜しかるべきの旨衆儀すと。

[百錬抄]
  今日より神泉苑に於いて、親厳僧正祈雨御読経を始め奉る。諸僧に仰せ水天供有りと。
  また炎旱旬を渉ること何の祟りぞやの由、御卜を行わると。
 

5月20日 丙辰 晴
  深更に及び鎌倉中物騒す。その故聞かずと。
 

5月24日 [百錬抄]
  諒闇終に大祓なり。
 

5月29日 [長門三浦家文書]
**平西仁譲状案
  すハうのくににほのしやうのちとうしきをハ、平子三郎左衛門のせうしけすけにゆつ
  りあたえて、ちやくしにたつるところ也、二郎つねむらハ出家して、きみの御大事ニ
  あふましきによて、四郎しけつくに、つねとミのほうをハゆつりあたへをはんぬ。も
  しさまたけん子ともいてきたらハ、ふけうの子なり、後日のために、自筆をもてゆつ
  りわたす所也、