1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)
 
 

6月1日 丁卯 晴
  子の刻大地震。
 

6月6日 壬申 霽
  炎旱旬を渉る。仍って今日祈雨せんが為、御祈り霊所七瀬御祓いを行わる。由比浜は
  国道朝臣、金洗沢池は知輔朝臣、固瀬河は親職、六連は忠業、柚河は泰貞、杜戸は有
  道、江島龍穴は信賢。この御祓いは関東今度始めなり。この外地震祭(国道)・日曜
  祭(親職)、七座の泰山府君は知輔・忠業・晴賢・晴幸・泰貞・信賢・重宗等と。ま
  た十壇の水天供は弁僧正(定豪)門弟等をしてこれを修せしむ。
 

6月10日 丙子 夜に入り甘雨下る
  今日、足利陸奥の守御扇を若君の御方に進す。彼の国司当時在京なり。
 

6月11日 丁丑 雨降る
  弁僧正巻数を献る。御馬を送らると。籐民部大夫奉行たりと。


6月12日 戊寅 雨下る
  辰の刻前の奥州(義時)の病悩、日者御心神違乱せしむと雖も、また殊なる事無し。
  而るに今度すでに危急に及ぶ。仍って陰陽師国道・知輔・親職・忠業・泰貞等を招請
  するなり。卜筮有り。大事有るべからず。戌の刻減気に属かしめ給うべきの由、一同
  占い申す。然れども御祈祷を始行す。天地災変祭二座(国道・忠業)・三万六千神祭
  (知輔)・属星祭(国道)・如法泰山府君祭(親職)。この祭の具物等、殊に如法の儀
  を刷うの上、十二種の重宝・五種の身代わり(馬牛男女の装束等なりと)、悉くその
  沙汰有り。この外泰山府君・天冑地府祭等数座なり。これ懇志を存ずるの人面々修せ
  しむる所なり。但し時を移すに随いいよいよ危急と。
 

6月13日 己卯 雨降る
  前の奥州の病痾すでに獲麟に及ぶの間、駿河の守を以て使いと為し、この由を若君の
  御方に申せらる。恩許に就いて、今日寅の刻落餝せしめ給う。巳の刻(若くは辰分か)
  遂に以て御卒去、御年六十二。日者脚気の上、霍乱計会すと。昨朝より相続けて弥陀
  の宝号を唱えられ、終焉の期に至る迄更に緩み無し。丹後律師善知識としてこれを勧
  め奉る。外に縛印を結び、念仏数十反の後寂滅す。誠にこれ順次の往生を謂うべきか
  と。午の刻飛脚を京都に遣わさる。また後室落餝す。荘厳房律師行勇戒師たりと。

[保暦間記]
  左京大夫義時(時に六十三歳)思いの外に近習に召仕ける小侍につき害されけり。さ
  しも十善帝王だに居ながら打勝進せしかども、業因遁れ難き事、都て疑うべからず。
 

6月15日 辛丑 晴
  恒例の七瀬御祓い、穢に依って延引すと。
 

6月17日 癸未 晴
  午の刻地震。

[百錬抄]
  前の陸奥の守従四位下義時朝臣去る十二日頓病。翌日死去の由風聞す。洛中物騒、車
  馬馳騒す。
 

6月18日 甲申 霽
  戌の刻前の奥州禅門葬送す。故右大將家法華堂東の山上を以て墳墓と為す。葬礼の事、
  親職に仰せらるるの処辞し申す。泰貞また文書を帯せずと称し故障す。仍って知輔朝
  臣これを計り申す。式部大夫・駿河の守・陸奥の四郎・同五郎・同六郎並びに三浦駿
  河の次郎及び宿老の祇侯人少々服を着し供奉す。その外御家人等皆参会し群を成す。
  各々傷嗟の涙に溺れると。
 

6月19日 乙酉
  初七日の御仏事、導師は丹後律師と。
 

6月22日 戊子 陰晴
  臨時の御仏事、三浦駿河の前司これを修す。導師は走湯山の浄蓮房。一日法華経六部
  を頓写すと。
 

6月26日 壬辰 天晴
  二七日の御仏事これを修せらる。大進僧都観基唱導を為すと。今日未の刻、武州京都
  より下着す。先ず由比の辺に宿し給う。明日正家に移らるべしと。去る十三日の飛脚
  同十六日入洛するの間、十七日丑の刻出京すと。また相州(十九日出京)並びに陸奥
  の守義氏等同じく下着すと。

[保暦間記]
  その比義時嫡子武蔵の守泰時・彼の伯父相模の守時房、折節六波羅にて在京したりけ
  り。この事を聞て馳下る。爰に伊賀式部の丞藤原光宗(光季の舎弟)、義時後室には
  兄弟なり。この腹の義時が子息左京大夫政村(時に式部の丞)、彼の母儀の後室並び
  に光宗・宰相中将實雅(義時聟茂時次男)、彼等が計として泰時を討て舎弟政村(後
  室腹子、光宗甥)を将軍家の執権をさせんと計けり。是に依て鎌倉静ならず。泰時且
  く伊豆国に逗留して、時房先鎌倉へ下て、穏謀の族を尋沙汰して後、同二十六日泰時
  鎌倉へ入。時房随分の忠を致しけり。二位家の御計とぞ、泰時も義時の跡を継で、将
  軍家の執権す。
 

6月27日 癸巳 天晴
  吉日たるに依って、武州鎌倉亭(小町の西北)に移らる。日者修理を加えらるる所な
  り。関左近大夫将監實忠・尾籐左近将監景綱両人の宅この郭内に在るなり。
 

6月28日 甲午
  武州始めて二位殿の御方に参らる。触穢御憚り無しと。相州・武州、軍営の御後見と
  して武家の事を執行すべきの旨、彼の仰せ有りと。而るに先々楚忽たるかの由、前の
  大膳大夫入道覺阿に仰せ合わさる。覺阿申して云く、延びて今日に及ぶ、猶遅引と謂
  うべし。世の安危、人の疑うべき時なり。治定すべき事は、早くその沙汰有るべしと。
  前の奥州禅室卒去の後、世上の巷説縦横なり。武州は弟等を討ち亡ぼさんが為、京都
  を出て下向せしむの由、兼日の風聞有るに依って、四郎政村の辺物騒す。伊賀式部の
  丞光宗兄弟、政村主の外家と謂うを以て、内々執権の事を憤る。奥州後室(伊賀の守
  朝光の女)また聟の宰相中将實雅卿を挙げ関東の将軍に立て、子息政村を以て御後見
  に用い、武家の成敗を光宗以下の兄弟に任すべきの由潜かに思い企つ。すでに和談を
  成す一同の輩等有り。時に人々の志す所相分かつと。武州の御方人粗これを伺い聞き、
  武州に告げ申すと雖も、不実たるかの由を称し、敢えて驚騒し給わず。剰え要人の外
  参入すべからざるの旨、制止を加えらるるの間、平三郎左衛門の尉・尾藤左近将監・
  関左近大夫将監・安東左衛門の尉・万年右馬の允・南條の七郎等ばかり経廻す。太だ
  寂寞と。
 

6月29日 乙未
  寅の刻、掃部の助時盛(相州一男)・武蔵の太郎時氏(武州一男)等上洛し給う(去
  る二十七日出門す)。両人共世上の巷説に就いて、鎌倉に在るべきの由を称すと雖も、
  相州・武州相談せられて云く、世静かならざるの時は、京畿の人意尤も以て疑うべし。
  早く洛中を警衛すべしてえり。仍って各々首途す。相州は当時事に於いて武州の命に
  背かれずと。今日六月祓い無し。触穢に依ってなり。天下諒闇の時行われざるの由、
  御沙汰に及ぶと。

[停止一向専修記]
**後堀河天皇宣旨
   宣旨
  専修念仏の事停廃す、宣下重疉の上、偸も尚興行するの條、更に公家の知ろし食す所
  に非ず、偏に有司の怠慢に有り。早く先符に任せ、禁遏せらるべし。その上衆徒の蜂
  起に於いては、宜しく制止を加えしめ給うべしてえり。天気に依って言上件の如し。
  信盛頓首恐惶謹言、
    六月二十九日          左衛門権の佐信盛(奉る)
  進上天台座主大僧正御房(政所)
   追って言上
   実名を知らざる兵衛入道の事、不日に関東に尋ねらるべきの由、その沙汰候なり。
   重ねて頓首謹言、

**天台座主(圓基)御教書
  専修念仏の事、勅答の趣、綸旨此の如し。不日に山上に披露せしめ給うべしてえり。
  和尚御房御気色此の如し。仍って執達件の如し。
    六月二十九日          権大僧都
  執当法印御房