1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)
 
 

7月4日 己亥 晴
  今暁太白井鉈を凌ぐの由、司天等の告げ有り。今日三七日の御仏事なり。導師は信濃
  法眼道禅。
 

7月5日 庚子
  鎌倉中物騒す。光宗兄弟頻りに以て駿河の前司義村の許に往還す。これ相談の事有る
  かの由人これを怪しむ。夜に入り、件の兄弟奥州の御旧跡(後室住居)に群集し、こ
  の事を変ずべからざるの旨、各々誓言に及ぶ。或女房これを伺い聞き、密語の始めを
  知らざると雖も、事の躰不審の由武州に告げ申す。武州敢えて動揺の気無し。彼の兄
  弟等変ずべからざるの由契約を成すこと、尤も神妙の旨仰せらると。
 

7月6日 辛丑
  今暁太白井中に入る。戌の刻月火を犯す(相去ること一尺五寸の所と)。
 

7月9日 甲辰
  戌の刻月心中央星を犯すと。
 

7月11日 丙午
  国土安全の為、二品三万六千神祭を行わしめ給う。連夜の天変に依ってなり。泰貞こ
  れを奉仕す。大膳の亮廣仲御使たり。今日四七日の御仏事、導師は荘厳房律師行勇。
 

7月13日 戊申
  天変の事司天の告げ申す所惟重し。仍って三万六千神・天地災変・月曜・螢惑星祭以
  下の御祈りこれを行わる。或いはまた結願すと。
 

7月16日 辛丑 晴
  奥州五七日の御仏事、導師は左大臣律師。


7月17日 壬子 晴
  近国の輩競い集まり、門々戸々に卜居す。今夕太だ物騒す。子の刻、二位家女房駿河
  の局ばかりを以て御共と為し、潜かに駿河の前司義村の宅に渡御す。義村殊に敬屈す。
  二品仰せて云く、奥州卒去に就いて、武州下向するの後、人群を成し世静まらず。陸
  奥の四郎政村並びに式部の丞光宗等頻りに義村の許に出入し、密談の事有るの由風聞
  す。これ何事ぞや。その意を得ず。もし武州を相度り独歩せんと欲すか。去る承久逆
  乱の時、関東の治運天命たりと雖も、半ばは武州の功に在らんや。凡そ奥州、数度の
  烟塵を鎮め、干戈に戦い静謐せしめをはんぬ。その跡を継ぎ関東の棟梁たるべきは武
  州なり。武州無くば、諸人爭か運を久しくせんや。政村と義村とは親子の如し。何ぞ
  談合の疑い無からんや。両人無事の様、須く諷諫を加えてえり。義村知らざるの由を
  申す。二品猶用いず。政村を扶持せしめ、濫世の企て有るべきや否や。和平の計を廻
  らすべきや否や、早く申し切るべきの旨重ねて仰せらる。義村云く、陸奥の四郎は全
  く逆心無からんか。光宗等は用意の事有りと。尤も制禁を加うべきの由誓言に及ぶの
  間、還らしめ給うと。
 

7月18日 癸丑 晴
  駿河の前司義村武州に謁し申して云く、故大夫殿の御時、義村微忠を抽んずるの間、
  御懇志を表せられんが為、四郎主御元服の時、義村を以て加冠役に用いをはんぬ。愚
  息泰村男を以て御猶子と為す。その芳恩を思うに、貴殿と四郎主と、両所の御事に就
  いては、爭か好悪を存ぜんや。ただ庶幾する所は世の安平なり。光宗日者聊か計略の
  事有らんか。義村諷詞を尽くすの間、漸く帰伏しをはんぬてえり。武州喜ばず驚かず。
  下官政村の為更に害心を挿まず。何事に依って阿党を存ずべきやの旨返答し給うと。
 

7月23日 戊午 晴
  三十五日の御仏事、導師は行勇律師と。
 

7月24日 己未 霽
  去る四日より今日に至るまで、連夜天変出見す。仍って国土安穏の御祈祷等これを始
  行せらる。鶴岡の供僧これを奉仕す。未の刻、勝長寿院の別当内大臣僧都親慶入滅す
  (年五十六。内大臣忠親公の息)。
 

7月29日 甲子
  連々天変の御祈祷これを行わる。
 

7月30日 乙丑 晴
  今日四十九日の御仏事なり。導師は弁僧正。夜に入り騒動有り。御家人等皆旗を上げ
  甲冑を着し競走す。然れどもその実無きの間、暁更に及び静謐す。