1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)
 
 

閏7月1日 丙寅 晴
  若君並びに二位家武州の御亭に御座す。連々御使を義村の許に遣わし、世上の濫吹を
  鎮むべきの由を仰せらるるの上、去る夜の騒動に驚き、義村を招き寄せ仰せ含められ
  て云く、吾今若君を抱き、相州・武州等と一所に在り、義村各別すべからず。同じく
  この所に侯すべしてえり。義村辞し申すこと能わずと。その外壱岐入道・出羽の守・
  小山判官・結城左衛門の尉以下の宿老を召し、相州を以て触れ仰せられて云く、上幼
  稚の間、下の謀逆禁じ難し。吾なまじいに老命に活きるを以て、太だ由無しと雖も、
  各々蓋ぞ故将軍記念の儀を存ぜざらんや。然れば命に随い一揆の思いを成すに於いて
  は、何なる者の蜂起有らんやと。
 

閏7月8日 戊辰 晴
  二品の御前に於いて、世上の事御沙汰に及ぶ。相州参らる。また前の大膳大夫入道覺
  阿老病を扶け召しに応ず。関左近大夫将監實忠記録を註すと。光宗等宰相中将實雅卿
  をして関東の将軍に立てんと欲せしむ。その奸謀すでに顕露しをはんぬ。但し卿相以
  上を以て、左右無く罪科に処せ難し。その身を京都に進せ、罪名の事を伺い奏すべし。
  奥州後室並びに光宗等に至りては流刑たるべし。その外の事、縦え與同の疑い有りと
  雖も、罪科に能わざるの由と。
 

閏7月23日 戊子
  寅の刻、武州の御辺騒動す。日者敢えてこの事無し。人怪しみを成すの処、卯の刻に
  及び、宰相中将(實雅卿)上洛せんが為進発するの後、勇士退散す。伊賀四郎左衛門
  の尉朝行・同六郎右衛門の尉光重・式部の太郎宗義・伊賀左衛門太郎光盛等扈従す。
  また式部大夫親行・伊具の馬太郎盛重等、指せる仰せに非ずと雖も、私に以て扈従す
  と。

[保暦間記]
  實雅卿越前国へ流さる。
 

閏7月27日 壬辰
  六波羅の使者到来す。去る十六日掃部の助入洛す。同十七日武蔵の太郎京着の由これ
  を申す。
 

閏7月28日 癸巳
  天変の御祈り三万六千神・天地災変等の祭結願す。左近将監佐房御使たり。これ二品
  の仰せに依って去る二十六日始行すと。若君並びに相州等本所に帰らしめ給うと。
 

閏7月29日 甲午
  伊賀式部の丞光宗事に坐し、政所執事職を改め、所領五十二箇所を召し放たる。外叔
  隠岐入道行西預かりこれを守護す。重科の者なり。親戚として預かり置くの條、聊か
  これを憚ると雖も、行西に於いては、諸事疑殆無きに依って預け置かるるの由、二品
  の芳命を請け、武州下知し給うと。籐民部大夫行盛政所執事に補す。また尾藤左近将
  監景綱武州後見と為る。以前二代は家令無し。今度始めてこれを置かる。これ武蔵の
  守秀郷朝臣の後胤玄蕃の頭知忠四代の孫なりと。

[保暦間記]
  光宗政所の執事を改めて、所領五十二ヶ所召離されて信濃国へ流罪せらる。舎弟朝行
  ・光重等鎮西へ流さる。政村は子細無りけり。彼の母儀は義時の後室(ともへの女房)、
  二位殿の御計として伊豆北條へ流さる。