1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)
 
 

8月1日 乙未 天晴
  日蝕、正現せず。他州触すと。秉燭の程、相州時房始めて政所に出仕す。この国司並
  びに武州執権の事を奉らるるの後、今にこの儀無し。而るを奥州禅室の五旬中は憚り
  申す所、誠に理と謂うべし。去る月はまた閏なり。今に於いては日次を撰ぶに及ばず。
  早く参らしむべし。この間世上静かならず。人の思う所その疑い多からんか。然る如
  き式を行われば、落居の基たるべきの由、二品頻りに勧め仰せらると。

[百錬抄]
  寅卯の刻日蝕有るべきの由暦注す。天晴雲収まり、日輪出現す。敢えて未だ蝕せしめ
  ず午の上に及ぶ。道の陵遅を謂うべきか。
 

8月8日 壬寅 小雨下る
  大蔵卿僧都良信勝長寿院別当職に補す。今日故奥州禅室の墳墓(新法花堂と号す)供
  養なり。導師は走湯山の浄蓮房(加藤左衛門の尉實長の斎なり)。
 

8月11日 [皇帝紀抄]
  左大臣正二位藤原家通薨す(二十一)。
 

8月15日 己酉
  鶴岡の放生会延引す。奥州禅室の事に依ってなり。
 

8月19日 癸丑 晴
  京都の使者参る。去る十一日左府(家通、近衛殿下御嫡子)薨じ給う(年二十一)の
  由これを申す。今月六日より御病気と。去る七日螢惑星歳星を犯すの変は、大臣慎み
  なり。旬内符合の旨司天等これを申すと。
 

8月22日 丙辰
  故奥州禅室百箇日の御仏事、今日これを修せらる。導師は弁僧正と。今夕六波羅の使
  者到来す。去る十四日相公羽林入洛の由これを申す。
 

8月27日 辛酉
  夜に入り鎌倉中物騒す。伊賀式部の丞光宗誅せらるべきの由巷説有り。その実無きに
  依って静謐すと。
 

8月28日 壬戌
  武州泰時、政所吉書始め在りと。また家務の條々その式を定めらる。左近将監景綱・
  平三郎兵衛の尉盛綱等奉行たりと。

[皇帝紀抄]
  世間物騒し武士四方に走る。伊賀四郎左衛門の尉・同六郎左衛門の尉等、六波羅に召
  し籠めらるるが故なり。
 

8月29日 癸亥 陰
  前の奥州後室禅尼、二位家の仰せに依って、伊豆の国北條郡に下向し、彼の所に籠居
  すべしと。その科有るが故なり。伊賀式部の丞光宗信濃の国に配流す。舎弟四郎左衛
  門の尉朝行・同六郎右衛門の尉光重等、相模掃部の助・武蔵の太郎の預かりとして、
  京都より直に鎮西に配流すべきの旨仰せ遣わさる。この両人相公羽林の上洛に扈従す
  るの後、未だ帰参せずと。