1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)
 
 

9月5日 戊辰 霽
  故奥州禅室御遺跡の庄園、男女の賢息に御配分の注文、武州二品よりこれを賜う。方
  々に廻覧し、各々所存有らば子細を申せらるべし。然らずんば、御下文を申し成すべ
  きの旨相触れらる。皆歓喜の上、曽て異儀無からんか。この事、武州下向の最前内々
  これを支配し、潜かに二品に披見するの処、これを御覧をはんぬ後、仰せに曰く、大
  概神妙なるか。但し嫡子分頗る不足す。何様の事ぞやてえり。武州申されて云く、執
  権を奉るの身、領所等の事に於いて爭か強いて競望有らんや。ただ舎弟等に省くべき
  の由これを存ずてえり。二品頻りに御感涙を降らすと。仍って今日彼の御計たるの由
  披露に及ぶと。また故前の奥州禅室は、存日京官・外国共任を避けらるるの間、常儀
  に就いて偏に前の奥州を称すと雖も、没後の今に於いては、右京権大夫を号し奉るべ
  きの旨定め下さると。子の刻、三浦駿河の前司義村の西御門の家焼亡す。他所に及ば
  ず。この間下方聊か物騒すと。
 

9月7日 [島津家文書]
**関東下知状
   早く左衛門少尉藤原忠義をして、讃岐国櫛無保地頭職に為せしむべき事、
  右人、彼の職として、先例に任せ沙汰を致すべきの状、仰せに依って下知件の如し。
    貞応三年九月七日        武蔵守平(泰時花押)
 

9月9日 壬申 晴
  陸奥の守義氏新恩に浴す。美作の国新野保以下数箇所と。
 

9月13日 丙子 晴
  戌の刻螢惑南斗を犯すの由司天これを申す。
 

9月15日 戊寅 晴
  鶴岡放生会の式日延引し、今日遂行せらる。相州若君御奉幣の御使たるなり。束帯・
  帯剱すと。
 

9月16日 己卯 陰晴
  寅の刻太白辰星を犯すと。今日流鏑馬已下神事例の如し。相州の参宮昨日に同じ。三
  浦駿河の前司・出羽の守以下廻廊に侯す。小山判官朝政馬場を警固す。
 

9月17日 庚辰
  卯の刻地震。天変の御祈り等これを行わる。