1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)
 
 

10月1日 甲子
  武州、駿河の前司義村・小山判官朝政・出羽の守以下宿老を招請し、盃酒を勧め贈物
  に及ぶと。
 

10月5日 [百錬抄]
  参議左中将實雅卿越前の国に配せらる。但し官符に及ばず、武士の沙汰なり。一昨日
  解官せられをはんぬ。
 

10月10日 壬子
  宰相中将實雅卿越前の国に配流せらるべきの由これを定めらると。

[皇帝紀抄]
  今暁中将實雅朝臣越前の国に下向す。公家知ろし食さず。武家内々将て向かう。
 

10月16日 己酉
  天変の御祈りこれを行わる。嶋津左衛門の尉忠久奉行たり(また一方供料沙汰し進す
  と)。
   愛染護摩(弁僧正)   薬師護摩(左大臣律師)  不動護摩(大進僧都)
   北斗護摩(信濃法眼)  七曜供(助法眼珍誉)   三万六千神祭(晴幸)
   天地災変祭(晴職)   属星祭(信賢)      太白星祭(文元)
   螢惑星祭(重宗)
 

10月28日 辛酉
  阿波の国麻殖保預所左衛門の尉清基と地頭小笠原の太郎長経と、日来相論の事有り。
  今日両国司の御前に於いて一決を遂ぐ。清基申して云く、当保は、康頼法師の功に依
  って右大將家より拝領し、今に相伝領掌するの処、長経謀叛の跡を称し申し賜わりを
  はんぬ。正理に非ず。早く返付すべきの由と。長経申して云く、清基は去る承久三年
  兵乱の時院中に侯し、腹巻を着し官軍に加わる。剰え自宅に於いて、和田新兵衛の尉
  朝盛法師を出立し、戦場に向かわしむと。清基重ねて云く、伯父左衛門の尉仲康と朝
  盛入道とは朋友なり。その所に於いて対面せしむの外、全く同心せずと。而るに彼の
  兵乱の比、清基当国守護人佐々木弥太郎判官高重に遣わすの状に云く、男たる程の者、
  一人と雖も御大切なり。麻殖の人々御辺に付き奉ること、神妙なりてえり。その状忽
  然と出来するの間、披覧に備う。逆節疑い無きの趣沙汰有り。清基の訴訟を棄損せら
  ると。
 

10月29日 壬戌 晴
  宰相中将(實雅卿)京都に於いて解官し、越前の国に配すと。
   参議従三位行右近衛中将兼美作権の守藤原朝臣實雅卿、入道前の中納言能保卿の男、
   母は従五位下行備前の守籐家恒の女。
   建仁三年正月五日、従五位下に叙す(皇太后宮去年朔旦の御給、時に名字實俊)。
   元久三年四月三日侍従に任ず。承元四年正月五日、従五位上に叙す(宣秋門院当年
   の御給、俊の字を改め雅と為す)。同十四日、越前の介を兼ねる。建保五年正月二
   十八日、伊豫の守に任ず(侍従元の如し)。十二月十二日、守を止む。六年三月六
   日、伊豫の守に還任す。四月九日左少将に任ず。承久元年正月五日、正五位下に叙
   す(臨時)。二年正月六日、従四位下に叙す(春宮当年の御給、少将元の如し)。
   四月六日右中将に転ず。三年七月二十八日、讃岐の守に遷る。十一月二十九日、従
   四位上に叙す(臨時)。貞応元年八月十六日、参議に任ず(右中将元の如し、その
   身関東に在り)。十一月二十二日、正四位下に叙す。二年正月二十七日、美作権の
   守を兼ねる。十月二十八日従三位に叙す。