1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)
 
 

12月2日 甲午 天晴
  武州執権として殊に政道興行の志を顕わさる。而るを明法道の目安を以て、今朝より
  毎旦一反これを覧るべしと。今日外記大夫祐通検注の為上野の国に下向す。この事土
  用中の検注、憚り有るべきや否や。武州より陰陽道に尋ねらる。国道・親職憚らざる
  の由を申す。傍示を利し見らば永代の為憚り有るべし。検注はその慎み無しと。晴幸
  申して云く、尤も憚り有るべし。その故は信濃の国一坪会坂に在り。これ土用以前こ
  れを始めらるるに依ってなりと。然れども以前の両人の説に就いて、これを下し遣わ
  さると。

[百錬抄]
  前の太政大臣(公経)北山堂を供養す。西園寺と号す。北白川院・安嘉門院臨幸す。
  右府已下諸卿群参す。仁和寺宮導師たり。
 

12月4日 丙申 晴
  改元の詔書到来す。去る月二十日貞応三年を改め元仁元年と為すと。式部大輔為長卿
  撰進す。詔書は彼の子息大内記長貞これを書くと。
 

12月14日 丙子 晴
  夜に入り若君武州の亭に渡御す。女房悉く御共を為す。御儲け殊に美を尽くさると。
  これ来十九日(立春節)御方違えの為入御有るべし。而るに件の日は没日なり。始め
  ての入御御憚り有るべきに依って、今夜故に渡り始めしめ御うと。
 

12月15日 丁未
  若君還らしめ給う。武州引出物を献らる。御剱は駿河の守これを持参す。御馬は三浦
  駿河の次郎泰村・同四郎家村これを引くと。
 

12月17日 己酉
  武州建立の堂の在所、当時の御舘より東方たり。而るに立春の後は王相方なり。その
  方を違えらるべきと雖も、節分の夜若君御方違えの為入御有るべきに依って、思い煩
  わしめ給うの間、知輔朝臣を招きこの趣を仰せ合わさる。知輔云く、仮に彼の堂を他
  人に譲渡し、造畢せらるべし。御願寺等に於いては、この例尤も多しと。猶不審を散
  ぜられ難きの間、重ねて親職に問わるるの処、追善の事を以て他人に譲らるるの條本
  儀に非ず。御方違え有るべからず。てえれば、暫く作事を閣き、夏節以後修功すべし
  と。後儀願主の御意に相叶うと。
 

12月19日 辛亥 天晴
  若君立春の御方違えの為、武州の御舘に入御す。左近大夫将監佐房・大膳の亮廣仲・
  三浦駿河の前司義村・同次郎泰村・同三郎光村・出羽の前司家長・佐々木の三郎泰綱
  等供奉す。女房五人同じく参ると。
 

12月20日 壬子 晴
  午の刻若君還らしめ給う。武州また御剱・御馬を進せらると。
 

12月24日 乙酉 晴
  伊豆の国北條の飛脚到来す。右京兆の後室禅尼、去る十二日以後病悩す。昨日巳の刻
  より危急に及ぶの由これを申す。
 

12月26日 戊午
  この間疫癘流布す。武州殊に驚かしめ給うの処、四角四境の鬼気祭を行わる。対治す
  べきの由、陰陽権の助国道これを申し行う。所謂四境は、東六浦・南小壺・西稲村・
  北山内と。