1月1日 壬戌 晴
相州椀飯等を献らる。御剱役人駿河の前司義村と。
1月8日 己巳
若君御歯固めをはんぬるの後、何方に遣わさるべきやの由、内々その沙汰有り。武州
北の方に進せらるべきの処、当時武州重服なり。この上は二品に献らるべきかの旨、
申し行うの人々有りと雖も、遂に相州の女房方に遣わさると。左近大夫将監親實奉行
たりと。
1月10日 夜より微雨 [明月記]
忠弘入道告げ送りて云く、在京の武士悉く戎服し馳走す。巷説に云く、三井寺事有り。
実否を知らずと。中将また示し送る。三井寺両院の党、中院修正を打ち破り、狼藉を
企てるの間、講師手を負う。この事に依って、本間左衛門三井寺に向かう。武士馳走
すと。
1月14日 乙亥
二品御願の為、今日鶴岡八幡宮に於いて、最勝八講を始行せらる。今年以後、毎月こ
の日この儀を刷うべきの由定め仰せらると。昨日、善民部大夫の奉行として僧名を注
せらる。所謂安楽房法橋重慶・美濃法橋有俊・頓覺房良喜・和泉阿闍梨重賀・肥前阿
闍梨良智・丹後阿闍梨頼暁・浄圓房智覺・座心房圓信等なり。
[百錬抄]
武士を以て園城寺に遣わさる。これ彼の寺の中北両院衆徒南院末寺(北蔵、微妙寺、
近松)と相論す。去年より三院共に意趣を結び、六月会已下恒例の仏事退転すと。爰
に中北両院修正の時、南院兒等見物を企てるの処、両院の輩南院兒を追却するの刻、
闘諍に及び、合戦を企てるべきの由その聞こえ有り。防御せんが為官軍を遣わすと雖
も、彼等その勢を見て本意を遂げずと。仍って武士空しく帰洛す。
1月15日 丙子
午の刻地震。
1月16日 丁丑 霽
月蝕正現す。