6月2日 辛卯 晴
二位家御悩の間、武州の御沙汰として、今日御祈り等を始行せらる。天地災変・呪咀
等の祭は国道朝臣、属星・鬼気は親職、三万六千神・螢惑・大土公は泰貞、太白星は
重宗、泰山府君は宣賢、天冑地府は重宗等これを奉仕す。
6月3日 壬辰
彼の御不例聊か御減すと。
6月5日 甲午
御祈り等重ねてこれを行わると。
6月7日 天晴 [明月記]
中将使者を以て告げ送る。関東二品獲麟有るの間(披露の所不食病と)、河東の武士
等集会す。右幕下使者を送られ、返事此の如しと。定めてこれ終命の由の飛脚か。去
々年法皇・去年義時朝臣、今年此の如し。天下の勝事、もしこれ人道の推して行う所
か。夕方また伝聞、相州馳せ下るべしと。実否を知らず。
6月8日 丁酉 晴
二位家御不例の事に依って、今日子の刻御逆修を始めらる。導師は信濃僧都道禅と。
[明月記]
二品病重きの由と雖も、当時存命と。夜に入り中将来たり。行兼相国の御使として、
関東に馳せ下ると。
6月10日 己亥 霽
前の陸奥の守正四位下大江朝臣廣元法師(法名覺阿)卒す(年七十八)。日来痢病を
煩うと。
[明月記]
暁更長綱朝臣使者を以て告げ送る。関東五日の飛脚到来す。二品の病漸く以て減気し、
当時無為の由と。天下安穏の計か。
6月12日 辛丑
二位家の御不例、去る七日より御増気。御祈りの為、武州の御沙汰として三万六千神
御祭有り。御使は籐勾当頼高なり。
6月13日 壬寅 晴
今日故京兆の周関に相当たり、武州新造の釈迦堂供養を遂げらる。導師は弁僧正定豪、
請僧二十口。相州已下人々群集す。
[明月記]
中将告げ送る。関東猶以て必定の由、夜半ばかり飛脚来着すと。中央の減気の披露如
何。世間また定めて嗷々たるか。安穏に隠逸するの計何の為たるや。また重ねて云く、
当時必定に非ず。六日よりその病また増気す。相州馳せ下ると。
6月14日 天晴 [明月記]
在京の武士大略下向するの由、ただ巷説に聞く。また雑人云く、廣元入道死去す。ま
た云く、武州病脳す。且つはこれ一事に依って虚言を称すか。未の刻ばかり中将来た
り。夜前相州相国亭に参る(今度在京初度か)。増気の由示し給うの状彼の自筆なり。
下るべからずの由示し給うと雖も、増気を承るの由、爭か今一度合眼せざらんや。仍
って往反二十日の由を存じ馳せ下る所(路次七日)なり。子息(四郎)・武蔵の太郎
在京すべし。廣元他界しをはんぬ。然れども子息長井入道下向せしめざるの由申すと
(白の直垂・折烏帽子、主従十人皆同じ)。帰路三條京極の辺百騎ばかり打ち加わる
と。行兼(廷尉)相国の御使として、今日昼下向すと。
6月15日 天晴 [明月記]
相州暁更下向すと。辰の時送るの人、勢多の辺より帰京すと。京に留まる武士両国司
の子息(相州二人)・本間左衛門久家・中務宇間左衛門・石川の六郎と。
6月16日 乙巳 陰
辰の刻二品御絶入。諸人群を成す。然れども則ち御復本せしめ御う。日を追って御増
気の間、昨(十五日)新御所に移らしめ給うべきの由仰せらるるの処、甲辰の日憚り
有り。来る二十一日然るべきの由陰陽道勘じ申す。仍って延引しをはんぬ。
[明月記]
閭巷雑人の説また嗷々す。関東の鋭卒蜂起するの由、下人等怖畏すと。中将示し送る。
今日相国参内し給う。東方の事全く聞き及ぶ事無し。入道今月二日鎌倉に参ると。
6月18日 天晴 [明月記]
小笠原(当時在京)、武蔵の太郎の許に於いて聞くの由、関東平癒の説、中将の許に
告げ送ると。
6月21日 庚戌 晴
二品新御所に渡御するの事兼ねて今日を点ぜられをはんぬ。然るに戌の日憚り有るの
由、医師行蓮申せしむに依って、隠岐入道の奉行として、国道朝臣以下陰陽師六人を
召し尋ね仰せらるるの処、戌の日憚り有るの條、本説無きの由申せしむの間、行蓮を
召し決すべきの旨行西に仰す。仍って国道朝臣問いて云く、戌の日の渡御憚るべき事
何れの文ぞや。行蓮答えて云く、所見無し、士女の説なり。国道云く、士女の説皆由
緒有り。何れの由緒ぞや。行蓮閉口し座を起ちをはんぬ。隠岐入道この旨披露せしむ。
聞く人これを咲う。次いで晩に及び猶御絶入の間、路次に於いて定めて事有らんかの
由、相州・武州計り申せらるるの間、彼の六人重ねて六月二十六日乙卯宜しきの由一
同これを撰び申す。武州仰せられて云く、乙卯四不出日その憚り有るべきかと。彼の
輩申して云く、四不出日の出行これを忌む。今は御移徙の儀なり。憚り有るべからず
と。仍って治定しをはんぬ。
6月22日 天晴 [明月記]
中将来たり。東方の事減気す。相州来るべからざる由使い来向すと雖も、すでに出路
に依って、猶前途を遂げるの由その聞こえ有り。その後また増気有り。巷説彼是信じ
難し。
6月23日 朝天陰 [明月記]
長清朝臣云く、蓮花心院の御忌日、平二位俄に所労す。公卿に無し。これをして如何。
五月朔より所労、籠居の日久しきの上、近日殊に増の由これを答う。
6月25日 甲寅 天晴 [明月記]
関東逆修善を始む(不食病、身腫れると)。
6月28日 天晴 [明月記]
或人云く、相州八駿の蹄出京し、六ヶ日の卯の時関東に着すと。彼の病増気の由告げ
送るの時、重ねて下知の状、三帝二王重ねて禁固を奉るべし。此の如きの時、各守護
等、全く上洛の心有るべからず。各々その営を固むべきの由諸国に下ると。
6月30日 己未 [明月記]
関東より彼の一家の人々、殊に禁裏に祇侯し給うべきの由示し送る。仍って指せる事
非ずと雖も、此の如く申し遣わすの由、また爭か騒ぎ申さざるやの由申せらる。快然
の御返事有りと。