1225年 (元仁2年、4月20日改元 嘉禄元年 乙酉)
 
 

7月6日 乙丑 晴
  前の権侍医和気定基(定経男)、去る夜より二位家御療治の為参侯す。これ日来頼経
  朝臣療治を加え奉るの所、御不例の躰その憑み御さざるの間、治術の覃ぶ所に非ざる
  の由辞し申すに依ってなり。
 

7月8日 丁卯 霽
  辰の刻、二品東御所に渡御せしめ給う。これ御違例既に危急の故なり。


7月11日 庚午 晴
  丑の刻二位家薨御す。御年六十九。これ前の大将軍の後室、二代将軍の母儀なり。前
  漢の呂后に同じく天下を執行せしめ給う。もしまた神功皇后再生せしめ、我国の皇基
  を擁護せしめ給うかと。
 

7月12日 辛未 晴
  寅の刻二位家の御事披露有り。出家の男女済々焉たり。民部大夫行盛最前に素懐を遂
  げをはんぬ。戌の刻御堂御所の地に於いて火葬し奉る。御葬事は、前の陰陽の助親職
  朝臣沙汰せしむなり。但し自身は参らず、門生宗大夫有秀を差し進すと。
 

7月13日 [百錬抄]
  去る夜、関東の飛脚到来し、洛中の貴賤馳走す。故頼朝卿の後家二品入滅すと。
 

7月23日 壬午 霽
  相州京兆の御旧跡に移住せられ給う(日来二品の御居所なり)。