1225年 (元仁2年、4月20日改元 嘉禄元年 乙酉)
 
 

12月2日 戊子 晴
  申の刻鳶御所中に飛び入るの間、周防の前司親實の奉行として御占いを行わる。失物
  ・病事・驚事・盗賊事等の由、国道朝臣以下これを占い申すと。
 

12月3日 天晴 [明月記]
  東大寺衆徒の訴訟嗷々す。大仏殿を閉め、放火すべきの由披露すと。
 

12月5日 辛卯
  新御所の上棟なり。相州・武州監臨せらる。隠岐入道行西・三浦駿河の前司義村・後
  藤左衛門の尉基綱・外記大夫等参上す。事終わり工等禄を賜う。また政所並びに御倉
  等を壊し渡さらる。女房大納言の局の宿所地に於いて、同じく上棟の儀有りと。
 

12月7日 天晴 [明月記]
  相州の子息次郎入道、去る二日死去すと。師弟の約束を成す。和歌に於いて尤も骨を
  得る。
 

12月8日 甲午 霽
  若君御元服の日時勘文京都より今朝到来す。来二十九日乙卯午の時と。在継これを撰
  び申す。而るに件の日、御移徙と云い御首服と云い、重畳頗る率爾たるべきの間、先
  度の御定めの如く、来二十日移徙有るは如何の由、関東の陰陽師等に尋ねらる。各々
  申して云く、二十九日は四不出日なり。先例有りと雖も、聊か二十日に劣らんかと。
  仍って儀定しをはんぬ。則ち御移徙の勘文を召さると。
 

12月9日 乙未 晴
  武州新御所に参らしめ給う。御移徙以前御祭等有るべきや否や御沙汰に及ぶ。大監物
  光行入道・源内左衛門の尉景房並びに国道朝臣・親職召しに依って参上す。爰に光行
  入道・景房、件の祭行わるる事強いて然るべからず。行わるに及ばざるの由内々これ
  を申し入れるに依って、決せられんが為なり。則ち武州直に子細を国道に問わしめ給
  う。彼の朝臣申して云く、件の両人は有識なり。当道の事各々別道たるの間、巨細を
  知るべからざるか。皇居より臣下の家に至るまで、移徙の時祭を行うの條定例なり。
  且つは華山院の往昔以来回禄の難無きは、彼の祭を行わるるが故なり。近くは後京極
  殿御移徙の時これを行わると。親職申して云く、故左府御移徙の時行われをはんぬ。
  故右府将軍の御時は、厩鎮の外悉くこれを行わると。仍って行わるべきの由と。
 

12月16日 [明月記]
  夜に入り中将来たり。興福寺衆徒の訴訟、東大寺東南院の事、門徒僧綱悉く入洛す。
  今日殿下に参り、急ぎ仁和寺宮の官府を止めらるべし。もし裁許無くば、東大・興福
  焼き払うべきの由これを申すと。
 

12月17日 癸卯 晴
  夜に入り新御所に於いて御祭等を行わる。所謂太歳八神祭は晴賢、謝土公は有道、井
  霊は信賢、大将軍は晴幸、王相は文元、防解火災は泰貞と。
 

12月18日 甲辰
  宅鎮祭は親職、石鎮は晴茂、西獄真人・七十二星両祭は国道、厩鎮は晴職等これを奉
  仕す。周防の前司親實奉行たり。
 

12月20日 丙午 快霽
  今日若君御移徙の儀有り。申の一点御出で(御狩衣、御騎馬)。午の刻の由勘文に載
  すと雖も、時刻推し移り此の如し。また先例この事皆夜の儀たり。今度は武州計り申
  し給うに依って白昼なり。殊に思し食す所有りと。
  御出儀
  先ず諸大夫
   左近大夫将監佐房  周防の前司親實  三條左近大夫将監親實
   大膳の亮廣仲    兵衛蔵人廣光   籐勾当頼隆
   善式部大夫光衡   伊賀蔵人     周防蔵人
   兵衛判官代     伯耆蔵人     和泉蔵人
    以上十二人先行す。
  次いで御後
   一、武州         同次郎        越後の守
   二、駿河の守       大炊の助       相模の四郎助教
   三、三浦の駿河の前司   同次郎        同三郎
   四、同四郎        中條出羽の前司    町野民部大夫
   五、日向の介       小山下野左衛門の尉  結城左衛門の尉
   六、後藤左衛門の尉    佐々木四郎左衛門の尉 隠岐三郎左衛門の尉
   七、加藤左衛門の尉    天野左衛門の尉    伊賀四郎左衛門の尉
   八、同六郎右衛門の尉   宇佐美兵衛の尉    中條次郎左衛門の尉
   九、佐々木太郎左衛門の尉 土屋左衛門の尉    狩野籐次兵衛の尉
   十、中左衛門の尉     遠藤左近将監     嶋津大夫判官
  等供奉す。前後皆歩儀なり。南門より入御せしめ給う。南庭中央に於いて下御せしめ
  給い、御車寄戸並びに二棟廊を経て、寝殿の階門に入御す。武州御簾をカカげ入れ奉
  られをはんぬ。陰陽権の助国道朝臣(束帯)反閇に候す(若君下御の後、庭中に立ち
  留まらしめ給うの間参向す)。廟辺に於いて禄を賜う(五御衣)。周防の前司これを
  取る。御所に向かい一拝し退出す。水火は御所に儲けらる。童女はこれを略す。また
  黄牛を牽く(御牛飼いは青の狩衣を着し、これに相副う)。内藤左衛門の尉盛時これ
  を役す。その後供奉人以下庭上に列座す。元三の式の如し。
  進物役人有り。
   御剱   駿河の守
   御調度  三浦駿河の前司
   御行騰沓 大炊の助
   一の御馬 駿河の次郎       同三郎
   二の御馬 佐々木太郎左衛門の尉  同三郎
   三の御馬 隠岐三郎左衛門の尉   同四郎
   四の御馬 狩野籐次兵衛の尉    加藤五郎兵衛の尉
   五の御馬 陸奥の四郎       同五郎
  入御の後、人々侍所に於いて椀飯を行わると。今度の御移徙の事に於いては略儀たる
  なり。作法三ヶ日式に及ばずと。
 

12月21日 丁未 霽
  新御所に立て置かるる処の黄牛、今朝これを引き出さる。また相州・武州・助教・駿
  河の前司・隠岐入道等御所に参り、評議始め有り。神社・仏寺等の事と。次いで東西
  侍御簡衆の事その沙汰有り。若君御幼稚の間、御所近々に就いて、東小侍に着到すべ
  きの由、御下向の始め定めらるるの上は、子細に及ばず。但し西侍無人の條、古例に
  背くに似たるか。仍って相州已下然るべき人々に於いては名代を差し進す。門々の如
  き警固の事、連日夙夜の勤めを致せしむべきなり。遠江の国已下十五ヶ国の御家人等、
  十二ヶ月を以て彼の分限の多少に宛つ。自身出仕の日たりと雖も、名代を西侍に進す
  (これを大番と号す)べきの由議定しをはんぬ。これ右大將軍の御時、当番と称し、
  或いは両月に亘り、或いは一月を限り、長日毎夜人々祇侯するの例なり。次いで同所
  に於いて始めて定番人を置かる。所謂桜井の次郎・安部の光高・今泉の太郎・大宅の
  政光・八町の六郎・橘の以康・市の三郎・平の重遠・長田の太郎・藤原の維定・飯田
  の太郎・物部の忠重・阿美の小次郎・伴の範兼以下なり。
 

12月22日 戊申 晴
  式部大夫光宗法師(法名光西)、厚免を蒙り配所より帰参す。本領八ヶ所これを返し
  賜わる所なり。
 

12月23日 己酉 晴
  丑の刻相州俄に以て病悩す。頗る危急なり。仍って験者頼益を召し置かれると。


12月29日 乙卯 晴
  若君の御方(御年八)御首服。申の刻二棟の御所南面に於いてその儀有り。後藤左衛
  門の尉基綱今日の奉行たり。時刻に出御す。二條侍従教定これを扶持し奉る。武州・
  陸奥の守義氏以下侍の座に着かる。次いで元服の雑具を置く。駿河の守陪膳に侯す。
  周防の前司親實・右馬の助仲能等役送たり。理髪・加冠は武州、御名字(頼経)は、
  前の春宮権大進俊道朝臣これを撰び申す。相州去る二十三日以後病痾の間、今日出仕
  し給わずと。