1226年 (嘉禄2年 丙戌)
 
 

1月1日 丁巳 天晴、風静まる
  新造御所の椀飯、武州沙汰し進せしめ給う。相州以下布衣を着し西侍に侯す。例の如
  く出羽の前司家長刻限を申す。次いで出御(御布衣)。二條侍従教定南面の御簾三ヶ
  間を上ぐ。先の人々庭に着す。駿河の前司義村(束帯)御剱(袋に入る)を持参す。
  御調度は前の大炊の助有時(布衣)これを役す。御行騰・沓は出羽の前司家長これを
  持参す。次いで御馬五疋。一の御馬(鞍を置く)は相模の四郎・民部の丞範重等これ
  を引く。
 

1月2日 戊午 晴
  椀飯、越後の守朝時これを沙汰す。御剱の役は駿河の守(重時)。
 

1月3日 己未 晴
  椀飯、駿河の前司義村これを進す。御剱は前の大炊の助これを役す。
 

1月8日 甲子 晴
  御任官の事京都に申されんが為、使者を進せらるべきの由その沙汰有り。佐々木四郎
  左衛門の尉信綱に仰すべしと。

[明月記]
  兵部書を送りて云く、来二十六日東方に下向すべしと。
 

1月9日 乙丑
  武州の御亭に於いて、駿河の前司等の衆の如き参会す。盃酒・贈物等有りと。
 

1月10日 丙寅 晴
  御任官の事並びに征夷大将軍宣下の事等、信綱を以て京都に申せらるべきに依って、
  今日御書を調えらる。助教師員、寅の日奏書を書かざるの由これを申すと雖も、急事
  たるの間宥め用いらると。
 

1月11日 丁卯 晴、夜に入り陰
  今朝佐々木四郎左衛門の尉信綱使節として上洛せしむと。
 

1月12日 蒼天快晴 [明月記]
  心寂房来たり談る。河東より来たると。相州の子息(男女)来二十六日掃部の助(他
  腹)を引卒し下向す。一人在京すべしと。左衛門の尉信綱等四五人、今明の間入洛す
  (また巷説出来すと)。(略)但し将軍去る二十九日元服し給いをはんぬ。その間の
  事信綱委旨を達すべしと。
 

1月16日 壬申 陰
  月蝕、正見せず。夜半に及び月輪聊か雲端を透すと雖も、今暁天陰噎すと。

[明月記]
  戌の刻帰廬す。朧月の春の夜、往年猶忘れ難し。
 

1月18日 甲戌 陰
  晩頭雪降る。終夜休まず。
 

1月19日 乙亥
  昨日より今朝に及び雪下る。積もる事二尺余り、近年比類無しと。
 

1月22日 天晴 [明月記]
  兵部の書状、相州の病重く、子息(四郎)今暁鞭を揚げ下向すと。日入る以前に室町
  殿に参る。今朝宇麻左衛門と云う男(時房郎等)西亭に来たり。去る十日より本病増
  気するの間、子息馳せ下る。掃部の助時盛来二十六日下るべきの由これを申すと。信
  綱(左衛門の尉)将軍御元服の事を申さんが為馳せ上る。雨雪路の煩いに依って、今
  日鏡の宿に着す。明日入洛すと。他の雑人の説、相州終命かと。
 

1月23日 天晴 [明月記]
  巳の刻ばかり兵部来たり談る。遠所の事猶無為の由を存ずるか。昏黒信綱入洛の由聞
  くと雖も、今夜参らずと。
 

1月24日 朝より天晴陰、雪間々飛ぶ [明月記]
  近日在京の武士遠江の国司(その妻武蔵太郎時氏の母なり。仍って時氏に付くべきの
  由関東これを許すと)本より酔狂、飛騨の前司知重(白拍子奉行人、官軍のその一な
  り)・印太兵衛(雅親卿一物)、彼の宅に於いて乱舞の間酔郷し、知重肱を折らる。
  印太蹂躙せらると。また酔中馳せ出で宇治に向かう。夜中宿所を仮るの間、宇懸多く
  摧破せらる。向後尤も恐るべき事か。(略)酉の刻ばかり信綱一條亭に参るの由、雑
  人の説を聞く。龍蹄等を相具すと。
 

1月25日 辛巳 晴
  今暁歳星・鎮星・太白星犯合すと。御慎文有るの由司天これを申し、勘文に及ぶと。

[明月記]
  信綱西亭に参る(この御方に参らず)。馬二疋行兼に付け、一封の状を進らしむ。女
  房の御方に進す。他事聞き及ばずと。泰俊朝臣今朝注し送る事、去る七日以来歳星と
  鎮星と合犯す(相去ること一尺の所)。太白順行し、また歳星を犯す(二尺三寸)。
  明暁定めて三星共に相犯すか。然れば驚位施行の文、天下慎むことか。
 

1月26日 壬午 晴
  田地領所を以て、双六の賭事として戯れる事、並びに私の出挙利過一倍、及び挙銭利
  過半倍の事、宣旨の状に任せ一向禁断すべし。違犯の輩有らば、交名を注進すべきの
  旨仰せ下さると。

[明月記]
  信綱今日関白殿に参る。将軍宣旨の事を申すべしと。叙位の事聞き申すか。委旨を聞
  かず。また御姓の事、信綱行兼を相伴い、春日神社に参り、改姓を申請すべきや否や
  と(これを推すに孔子の賦か)。御名頼経と。籐氏の源氏たること、未だ聞かざる事
  か。この事また凶人の勧励か。年来氏社・氏寺は彼の御祈りを修す。今此の如し。殊
  に冥慮に背くか。俊親義村の吹挙に依って、両国司の耳目たりと。定めて追従横謀の
  詞を咄すか。悲しむべきの世なり。
 

1月27日 天晴 [明月記]
  日入るの程室町殿に参る。中納言同時に見参す。今夜彼の叙位の事計り叙せらるべき
  の由申すと。春日に参ると雖も籐氏を改むべからずと。

[狩野享吉氏蒐集文書]
**頼経征夷大将軍宣旨案
  勅
   征夷使
    大将軍正五位下藤原朝臣頼経
   嘉禄二年正月二十七日
 

1月28日 甲申
  巳午両時雷雨大風。

[明月記]
  遅明下名の任人を注し送る。侍従清兼(顕平子)・刑部大輔季宗・同少輔経範・右少
  将籐頼経・右衛門権佐信盛・征夷大将軍頼経・正五位下頼経と。土佐守籐経成。下名
  の任人文官十九人・武官七十四人。宮城使親長・頼隆・東大寺家光各々判官等と。