1227年 (嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥)
 
 

12月1日 丙午 晴
  戌の刻地震。
 

12月2日 丁未 霽
  周防の前司の奉行として、地震の事陰陽道に尋ねらる。勘文を召すと。
 

12月5日 庚戌 晴
  将軍家卯の刻より御咳病の気有り。赤斑瘡御減の間、今日御沐浴有るべきの由、兼日
  定めらるるの処、この御事に依って延引すと。
 

12月8日 癸丑
  駿河の前司義村下若を相具し御所に参り、女房等に勧め奉る。これ御不例無為の事賀
  し申すが由なり。
 

12月10日 乙卯 晴
  御不例の後、御沐浴の儀有り。良基参候すと。相州以下人々群参すと。
 

12月11日 天晴風寒 [明月記]
  夜半改元。安貞(資高朝臣の勘文)の由、御書を以て仰せらる。この字存外の事か。
 

12月12日 朝天快晴 [明月記]
  夜に入り兵部来たり談る。相州の上洛(熊野詣料)また止まりをはんぬ。孫(歌仙入
  道子)夭亡の故と。
 

12月13日 戊午 陰
  護持僧・陰陽師等結番せらる。隠岐入道・周防の前司・後藤左衛門の尉奉行たり。
  先ず護持僧、
   上旬 弁僧正    丹波僧都  宰相律師
   中旬 大蔵卿法印  大進僧都  常陸律師
   下旬 信濃法印   加賀律師  蓮月房律師
  次いで陰陽師、
   一番 泰貞   二番 晴賢   三番 重宗
   四番 晴職   五番 文元   六番 晴茂
 

12月14日 己未 晴
  竹の御所御方違えの為、越後の守の名越亭に入御し給う。
 

12月15日 庚申 霽
  鶴岡放生会これを遂行せらる。式月御軽服に依って延引する所なり。
 

12月25日 庚午 晴
  六波羅の飛脚到来す。改元の詔書を持参す。去る十日、嘉禄三年を改め安貞元年と為
  すと。今年三合に相当たるの上、赤斑瘡流布す。人庶多く以て病死するの間、この儀
  に及ぶと。
 

12月26日 辛未 晴
  政所に於いて改元の吉書を行わる。信濃民部大夫入道行然これを奉行す。
 

12月28日 癸酉 晴
  武州の御亭に於いて、将軍家明年の御行始めの事その沙汰有り。正月八日・同十四日
  たるべきの由、陰陽道これを申す。八日は延引せしむべし。十四日宜しかるべきの旨
  仰せらる。御行始めの方角、北方吉の由晴賢これを申す。北方は天一の方なりと。