1229年 (安貞3年、3月5日 改元 寛喜元年 己丑)
 
 

3月1日 己巳 天晴
  今日天変の御祈り等始行せらる。愛染王(松殿法印)・金輪(信濃法印)・北斗(大
  進僧都)・螢惑(珍誉法印)・歳星(珍瑜法橋)。外典、地震祭(重宗)・螢惑星(宣
  賢)・歳星(国継)・泰山府君(晴職)。
 

3月5日 癸酉 晴
  八座の鬼気祭を行わると。

[玉蘂]
  申の刻、直衣冠を着し参内す。(略)即ち主上出御す。親長朝臣大盤所の簀子に於い
  て人々の申状を申す。左大臣(寛安・寛喜)、右大臣(正安・寛喜)、兼宗卿(正安
  ・寛喜)、基家卿(同)、実氏卿(寛安・寛喜)、実親卿(同)、通方卿(正安・寛喜)、
  実基卿(正安)、定高卿(正安・寛喜)、頼宣(寛安)、経高(寛喜・寛安)、家光(寛
  喜・文永)、範輔(寛安・寛喜)、宣経(寛喜・禎祥)、頼経(同)等なり。(略)仰
  せに云く、安貞三年を改め、寛喜元年と為すと。
 

3月8日 丙子 晴
  寅の刻地震。
 

3月14日 壬午 晴
  武州の室岩殿観音堂に詣で給う。その次いでを以て越州の女房等密々会合す。夜に入
  り帰らると。
 

3月15日 癸未 晴
  将軍家花を覧んが為永福寺に御出で。水干・御騎馬なり。駿河の守・陸奥の四郎・同
  五郎・周防の前司親實・式部大夫親行以下二十余輩供奉すと。
 

3月25日 癸巳 天晴
  政所に於いて改元の吉書始め有り。信濃次郎左衛門の尉武州の御共を為す。御所に持
  参し、御前に披覧すと。去る五日安貞三年を改め寛喜元年と為す。大蔵卿為長卿これ
  を撰び進すと。

[明月記]
  去る二十一日楊梅町の辺民家責め負う物の事に依って、日吉二宮の宮子法師苛法を致
  すの間、河東の武士(壱岐左衛門)の従者等諍論闘諍す。すでに宮子法師を打ち殺し
  をはんぬと。この事に依って山の衆徒また騒動すと。
 

3月26日 甲午 晴
  新判官基綱京都より帰参す。二月二十七日使の宣旨を蒙り、三月九日畏み申すと。譜
  第の職たりと雖も、日来数輩に超越せられをはんぬ。年歯四十九の今、適々この恩に
  預かると。今日は往亡日たるの由、諷諫の人有りと雖も、武家に於いてはこの日を忌
  まず。その上曩祖秀郷朝臣以来、還って用い来たるの由を称す。彼の大倉の家に到着
  し、即ち今夜御所並びに武州の亭に参り、当職拝任の事を賀し申すと。

[明月記]
  静俊注記し来たり。山上の事を問うに、此の僧の説に云く、二十三日この狼藉有り。
  宮主法師或いは終命、或いは刃傷す。衆徒昨日三塔の会合議定す(件の左衛門の尉を
  申請せんと欲すと)。
 

3月27日 乙未 天眼快晴 [明月記]
  山門の事、武士怒り神人の下手人を申請せんと欲す。山門また武士を申請せんと欲す。
  但し打ち殺さるべきは、実に宮主に非ざるの由、貫首尋ね披き、武士に仰せらると。
  武士また神人を申請す。下手の事構えて宥めらるべきの由、治部を以て殿下に申せら
  ると。
 

3月28日 丙申 晴
  酉の刻地震。

[明月記]
  下人等云く、陣の辺警固の武士有りと。山門猶嗷々すか。世事を聞かず。