1229年 (安貞3年、3月5日 改元 寛喜元年 己丑)
 
 

4月1日 戊戌 朝天陰 [明月記]
  座主宮参る。仰せに云く、武士・山門嗷々す。互いに下手を申す。更に落居すべから
  ず。由無きに依って天台座主を辞し申す。昨日面奏す。
 

4月2日 己亥 天晴 [明月記]
  山上猶嗷々す。偏に甲冑を帯すと。京中また武士往反すと。(略)今日武士俄に馳奔
  す。粟田口十禅師祭兵具を帯びる者有り。これを見て相驚くと。今日また神人の者を
  打つ。山僧茲に因ってまた奔る者等これ有りと。連日の事か。
 

4月3日 庚子 朝天陰 [明月記]
  衆徒の訴え、当時ただ関東に仰せられ、彼の申すに随うべきの由仰せらるるか。実に
  この事他の術無きか。
 

4月6日 癸卯 天晴 [明月記]
  山の衆徒重ねて使い(三綱・所司・社司)を進し、殺害の神人の事、これ時氏郎従の
  行う所なり。何ぞ関東に仰せられん。早く時氏に仰せられ下手人を給うべきの由と。
 

4月17日 甲寅 晴
  辰の刻将軍家三崎の津に御出で。相州・武州以下多く参らる。駿河の前司御船等を件
  の浦に儲け、御船中に於いて管弦・詠歌の儀有り。佐原三郎左衛門の尉遊女等を相伴
  い、一葉に棹さし参向す。事として興を催さずと云うこと莫し。凡そ山陰の景趣・海
  上の眺望、勝地に於いて比類無きか。
 

4月19日 丙辰
  三崎より還御す。
 

4月22日 己未 朝天遠晴 [明月記]
  山の衆徒嗷々し明日の祭を留めんと欲す。殿下只今御参内。御使頻りに座主の御許に
  参る。閭巷物騒と。関東すでに罪科に行わるべきの由内々申すの上、時氏猶承伏せず
  渋り申す。天下旁々静まらず。末世の常儀と雖も、尤も恐歎すべきものか。
 

4月24日 辛酉 朝陽陰晴 [明月記]
  昨夜衆徒三十人ばかり門楼の前に於いて、騒動の群議を成す。制止方また西方より出
  来す。且つは子細を問うの間、漸く逃げ去ると。
 

4月27日 甲子 霽
  今日走湯山の講堂・常行堂上棟なり。以前治定の日時等延引すと。

[明月記]
  法印巳の時ばかり書状に云く、高野の衆徒蜂起狼藉の由、昨日酉の時飛脚到来す。今
  日の御進発留めしめ給う。秋を期すべきかと。末代衆徒諸方狂いの事、言いたらざる
  事か。