1230年 (寛喜2年 庚寅)
 
 

閏1月4日 丁酉 天晴 [明月記]
  昨日聞き及ぶ所の事、泰時・時房任官の事、口入すべからざるの由、最初より各々こ
  れを称す。彼の両人の妻各々中将に挙す。
 

閏1月7日 庚寅
  武州祇候人等を以て、去年京都に差し遣わし、多の好氏に対し神楽の秘曲を習わしむ。
  而るに好氏近日関東に参向すべきの由その聞こえ有り。仍って今日重ねて御書を好氏
  に遣わさる。下向の儀を止め、閑かに彼の曲を授くべきの旨これを載せらると。
 

閏1月10日 癸卯 天晴 [明月記]
  信繁法師また女院の御使として関東に下向すと。前事を積み習うか。
 

閏1月17日 庚子 晴
  竹の御所の二所奉幣の御使左衛門の尉廣光進発す。去る十三日御精進始めなり。
 

閏1月19日 壬寅
  今暁地震。
 

閏1月20日 癸卯
  夜に入り雷鳴。
 

閏1月22日 乙巳
  酉の刻地震。大慈寺の後山頽れる。

[明月記]
  伯卿の妹(故入道落胤)、言家先年妻と為す。離後この宮に候す。去る冬より籠居す。
  義村の子在京二人の中の弟か、自愛同宿すと。また通具卿老後の愛物師季(中将妹)、
  同じく武士の愛物として白河に在りと。能直の子か。
 

閏1月23日 丙午 天晴
  将軍家年首の御浜出始めなり。由比浦に渡御す。先ず小笠懸、次いで遠笠懸、次いで
  流鏑馬、次いで犬追物(二十疋)、次いで小山の五郎・三浦の四郎・武田の六郎・小
  笠原の六郎、別の仰せに随い作物等を射る。御入興他に無しと。
 

閏1月26日 己酉
  瀧口無人の間、経歴の輩の子孫に仰せ差し進すべきの旨、院宣を下されすでにをはん
  ぬ。仍って日来その沙汰有り。小山・下河邊・千葉・秩父・三浦・鎌倉・宇都宮・氏
  家・伊東・波多野、この家々子息一人を進すべきの旨、今日仰せ下さる。
  その状に云く、
   瀧口無人の間、御家人の中より召し付けらるる所なり。その内子息一人進せしむべ
   きの状、鎌倉殿の仰せに依って執達件の如し。
     閏正月二十六日          武蔵の守
                      相模の守
   某殿
 

閏1月29日 壬子 雨降る
  将軍家四十五日の御方違えなり。相州の御亭に入御す。竹の御所駿河入道の家に入御
  す。今夕旅の御所に於いて、佐々木兵衛太郎信實法師度々の勲功を申し募り本領を返
  し給うべき由の事、その沙汰有り。功に於いては御感に及ぶと雖も、彼の所々に至り
  ては、当給人有り。便宜を期すべきの旨仰せらると。