1230年 (寛喜2年 庚寅)
 
 

2月6日 戊午
  鶴岡の別当法印御所に参り盃酒を奉る。相州・武州参り給う。駿河の前司已下数輩座
  に候す。爰に上綱兒童を具し参るの中、芸能抜群の者有り。仰せに依って数度廻雪の
  袖を翻す。満座その興を催す。将軍家また御感の余り、その父祖を問わしめ給う。法
  印申して云く、承久兵乱の時、図らずも官軍に召し加えらるるの勝木の七郎則宗が子
  なり。所領を収公せらるるの間、則宗の息女従悉く以て離散す。その身すでに山林に
  交ると。武州尤も不便の由申し給う。彼の則宗は、正治の比景時に與すの間召し禁し
  められをはんぬ。適々免許を蒙り本所筑前の国に下向するの後、院の西面に候すと。
 

2月7日 己未 天晴
  将軍家杜戸に渡御す。遠笠懸・流鏑馬・犬追物(二十疋)等なり。例の射手皆参上す。
  各々射芸を施すと。
 

2月8日 庚申
  勝木の七郎則宗の本領筑前の国勝木庄を返し給うなり。この所は中野の太郎助能承久
  の勲功の賞として拝領せしむと雖も、子息の兒童を賞せらるるに依って、則宗に給い
  をはんぬ。助能また替わりに筑後の国高津・包行の両名を賜う。武州殊にこれを沙汰
  し給うと。

[明月記]
  忠弘法師来たり。能州の吏務更に以て棄居すべからず。地頭守護の張行・国務の滅亡、
  言い足らざる事と。但しその分限に於いては、形の如くこれを行いをはんぬ。
 

2月17日 己卯 晴
  御所西侍の南縁に於いて千度御祓いを行わる。陰陽師は親職朝臣(束帯)已下十人。
  陪膳は大炊の助有時(布衣上括り)・常陸大掾政村(同)、手長は隠岐三郎左衛門の
  尉行義・出羽左衛門家平以下十人なり。後藤判官基綱これを奉行す。
 

2月19日 辛巳 天晴
  将軍家由比浜に出でしめ給う。これ駿河の守(重時)京都守護として、近日上洛せし
  むべきに依って、御餞の故なり。相州・武州・駿河の守(各々野矢)等参らる。六十
  疋の犬追物有り。内の検見は駿河の前司(白の直垂・夏毛の行騰、黒馬)、外の検見
  は下河邊左衛門の尉(曳柿の直垂・夏毛の行騰、葦毛の馬)。
  射手、
   一手
    相模の四郎  武田の六郎  佐々木の四郎
    城の太郎   結城の五郎  三浦の又太郎
   一手
    相模の五郎  小山の五郎  下河邊左衛門次郎
    佐々木の八郎 駿河の四郎  小笠原の六郎
 

2月20日 壬午
  丑の刻地震。
 

2月23日 乙酉 晴
  御祈り等を始行す。去る二十一日太白の変有るに依ってなり。
 

2月30日 壬辰 陰
  丑の刻俄に鎌倉中騒動す。甲冑を着し旗を揚げるの輩、御所並びに武州の門前に競集
  す。制止を加えらると雖も、数百騎に及ぶの間輙く静謐し難し。すでに時を移す。武
  州仰せて云く、御所の辺の騒動、太だ穏便ならず。世上の狼唳此の如きの次いでに起
  らん。尤も慎み思し食すべしと。頃之内々命ぜらるるの旨有るに依ってか、尾藤左近
  入道・平三郎左衛門の尉・諏方兵衛の尉、郎従を引率し門外に出て、謀叛の輩有りと
  称し、浜を指し馳せ向かうの間、数百騎の輩忽ち以て彼の三人の後に従う。稲瀬河に
  到り、道然已下馳せ来たる所の軍士に相逢って云く、叛逆の族無し。ただ御所近々の
  騒動を鎮めんが為なり。爰に仰せに非ず面々旗を揚げること、何様の事ぞや。もし野
  心無くば、夜陰の程旗を進すべし。これ武州の仰せなりと。これに依って老軍二十余
  輩、旗を御使に献ず。各々この所より離散しをはんぬ。