1230年 (寛喜2年 庚寅)
 
 

3月1日 癸巳 晴
  去る夜旗を進すの輩を御所に召し聚め、武州対面し給う。各々異儀を存ぜず旗を進す
  こと、尤も神妙なり。但しその由緒無く騒動すること、向後固く慎むべしと。旗は注
  文に任せ悉く以てこれを返し下さる。世以て美談とせざると云うこと莫し。彼の輩の
  名字皆これを注し置かる。その故を知らずと。
 

3月2日 甲午 晴
  竹の御所に於いて千度御祓いを行わる。その後夜に入り鶴岡八幡宮に御参り。また駿
  河の守六波羅に候すべきに依って、小侍別当を辞すの間、今日陸奥の五郎實泰を以て
  その替わりと為すと。
 

3月5日 丁酉 晴
  天変の御祈りとして、御修法三檀始行す。また本命星供は助法印、歳星供は備中法橋。
 

3月11日 癸卯 晴
  卯の刻駿河の守重時朝臣六波羅に候ぜんが為上洛す。
 

3月12日 甲辰 晴
  戌の刻雨降る。西方雷鳴。
 

3月14日 丙午 晴
  将軍家御方違えの為、相州の亭に入御す。
 

3月15日 丁未 晴
  永福寺恒例の一切経会、将軍家渡御す。相州・武州供奉し給う。土屋左衛門の尉御劔
  を持つ。
 

3月16日 戊申
  将軍家御方違えの為石山局の許(御所北の対)に入御す。小侍の対屋等御造作有るべ
  きに依ってなり。
 

3月17日 己酉 晴
  今夜猶石山局の許に御方違え有り。

[明月記]
  宰相昨日時氏に逢わんが為河東に向かう。二十八日一定下向の由これを称すと。
 

3月18日 庚戌 天晴
  午の刻小侍を他所に曳き移され、対十間これを立てらる。周防の前司親實奉行たりと。
 

3月19日 辛亥 晴
  将軍家御遊覧の為三崎の磯に出御す。山桜花尤も盛んなり。仍って領主駿河の前司殊
  なる御儲けを以て案内を申す。相州・武州以下参らる。六浦の津より御船を召す。海
  上管弦(若宮兒童)有り。連歌有り。両国司並びに廷尉基綱・散位親行・平の胤行等
  各々秀句を献らると。
 

3月22日 甲寅 天晴
  三崎より還御すと。
 

3月28日 庚申 晴
  天変の御祈りを行わる。内外典数座と。

[明月記]
  夕宰相来たり、今朝密々時氏朝臣の下向を見ると。単葛の直垂・夏毛の行騰、征箭を
  負う。黒作の劔を持ち黒鞍に乗らしむと。然るべき郎従三百騎ばかり、暁より前陣進
  発す。自身は曙の後出る。七歳の小兒小馬に乗り扈従す。馬の傍ら手戟を持たしむと。
 

3月29日 辛酉
  辰の刻御所の両対(十二ヶ間なり)に二ヶ間を造り加えらる。十四ヶ間憚り有るや否
  や、陰陽道に召し問わるるの処、親職朝臣已下三人は、寝殿の外憚り無きの由これを
  申す。図書の助晴賢憚るべきの旨を申す。仍って造り継がると雖も二寸下らるべきの
  由定めらると。