1230年 (寛喜2年 庚寅)
 
 

5月5日 丙申 雨降る
  子の刻盗人常の御所に推参し御劔・御衣等を盗み取る。行方を知らず。武州この事を
  聞かしめ給うに依って、則ち参らる。金窪左衛門の尉行親・平三郎左衛門の尉盛綱等
  に仰せ、大番衆をして四方を警固せしめ、人の出入りを止めらると。
 

5月6日 丁酉 小雨灑ぐ
  武州未だ退出し給わず。去る夜の盗人の事殊に驚き憤らるるが故なり。侍に於いて去
  る夜参候の輩を召集し糺弾せらる。その中恪勤一人・美女一人、疑胎の分有り。仍っ
  て鶴岡八幡宮に参籠し、起請文を書き進すべきの由仰せ含められをはんぬ。
 

5月14日 乙巳 晴
  先日嫌疑の恪勤・美女、起請文の失有るに依って、子細を糺明せられ、御所中を追放
  す。件の美女彼の男を引級し盗ましむの條露顕せしむと。
 

5月21日 壬子
  加賀の前司遠兼亡父安藝の前司仲兼の遺領を知行せしむ。地頭職の事は先例に違うべ
  からざるの旨、今日仰せを蒙る。彼の仲兼朝臣は、去る元久元年十二月将軍家の室(西
  八條禅尼これなり)京都より御下向の時供奉す。二年閏七月二十六日一村を拝領せし
  むの後、父子相続いて関東の奉公すと。
 

5月22日 癸丑
  丑の刻将軍家御鼻血出る。これ御咳病の故かと。
 

5月23日 [皇帝紀抄]
  [四條壬生]嘉陽院御所焼亡す。
 

5月24日 乙卯
  辰の刻御鼻血出る事度々に及ぶ。仍って御祈り、御所に於いて七座の泰山府君祭を行
  わる。隠岐三郎左衛門の尉奉行たり。左近大夫将監佐房奉行せしむべきの処、故障有
  るに依ってこれを改めらると。
 

5月27日 戊午 晴
  修理の亮(時氏)この間病脳す。今日未の刻より俄に増気す。武州数箇の丹祈を凝ら
  さると。宮内兵衛の尉・周枳兵衛の尉・安藤左近将監・同次郎・雑色兵衛の尉等、御
  看病の為祇候す。各々敢えてその席を避けずと。