1230年 (寛喜2年 庚寅)
 
 

6月5日 乙丑 晴
  巳の刻、幕府小御所の上に白鷺集まると。
 

6月6日 丙寅 晴、未以後雨下る
  今日助教師員・弾正忠季氏等の奉行として、陰陽師を御所に召さる。七人恩喚に応ず。
  所謂親職・泰貞・晴賢・晴幸・重宗・宣賢・晴職・国継等なり。各々西廊に着す。相
  州・武州・隠岐入道行西・出羽の前司家長等評定所に候せらる。昨日の鷺の事、助教
  の奉行として御占い有り。親職・晴賢申して云く、口舌闘諍の上、慎まるべき由の事
  御すと。泰貞以下申して云く、御所並びに御親昵の御病事に就いて、御家人中文書及
  び口舌に依って、闘諍を聞こし食すべしてえり。皆別紙の占形を献る。次いでこの怪
  に就いて御所を去らしめ給うべきや否や、一二の吉凶を問わる。一吉の由一同せしむ。
  今度は詞を以てこれを申す。一は去らしめ給うべからざるの由なり。仍って沙汰有り。
  他所に移らしめ給うに及ばず。
 

6月7日 丁卯
  今夜鷺祭を行わる。晴賢これを奉仕す。

[明月記]
  修理の亮時氏関東に於いて病を受け、大略時を待つが如し。京畿馳走すと。この家猶
  事有るべきか。尤も不便。昏黄また雑人云く、相模の四郎時房朝臣の嫡男事有り終命
  の由巷説す。物騒と。
 

6月8日 戊辰 天晴陰 [明月記]
  昨日の事宰相に問う。修理の事その聞こえ有り。相州の事虚言か。昨夕河東の従等聊
  か闘諍す。この事に依って走る者有るかと。今日聞く、時房の子に非ず、義村の子駿
  河の次郎(年来在京、泰時聟)と号す。去る月の比下向し鎌倉に着く。幾程を経ず、
  今度京(初参か)より相具する従者、天曙夜警の者悉く退出の時刻を相窺い殺害す。
  自身即ちその傍らに於いて自害すと。時氏また死去の由、夜前閭巷偏に披露すと。大
  谷斎宮尼戸部来たり。彼の斎宮の女房伯卿妹(言家旧妻)、年来濫吹有るの間、去る
  冬より件の駿河次郎の従高江の次郎の愛物と為る。去る月その夫に相具し、越後の国
  に下ると。
 

6月9日 己巳 雷雨
  酉の四点雷御所御車宿の東母屋の上に落ち、柱・破風等破損しをはんぬ。後藤判官の
  下部一人悶絶す。則ち筵に纏い北の土門より出しをはんぬ。戌の刻に及び死すと。

[明月記]
  巳の時ばかり宰相来たり。駿河の事去る比狂説流布すと雖も、相門の辺すでに虚言の
  説たりと。武蔵またすでに獲鱗の由を聞く。未だ事切る由を聞かずと。
 

6月10日 庚午 雷雨、戌の刻晴に属く
  御所に於いて七座の鬼気御祭を行わる。隠岐三郎左衛門の尉奉行たり。

[明月記]
  掃部の助時盛時氏を訪わんが為馳せ下ると。時氏四月の比重病、減を得るの後ショウ
  瘧病、存命し難しと。
 

6月11日 辛未 微雨灑ぐ
  午の刻武蔵の国の在廰等注し申して云く、去る九日辰の刻、当国金子郷雪交りの雨降
  る。また同時に雷、雹降ると。
 

6月14日 甲戌 風雨甚だし
  相州・武州御所に参られ、西廊に着き給う。助教師員・隠岐入道行西・駿河の前司義
  村・民部大夫入道行然・加賀の守康俊・弾正忠季氏等その砌に候す。去る九日の雷の
  事に依って御所を避けしめ給うべきや否や、将又御占いを行われ、吉凶に就いて宜し
  く御進退有るべきや否やの事評議に及ぶ。意見区々なり。季氏申して云く、先規に於
  いては分明ならず。此の如き事、占いの吉凶に依るべきか。人口に有り難し。醍醐の
  御宇延長八年六月二十六日、清涼殿坤方の柱上霹靂す。大納言(清實卿)・右中弁希
  世朝臣、忽ち雷火の為薨卒す。これ常途の篇に非ずと雖も、猶遷幸の儀無し。ただ常
  寧殿に入御すと。行西申して云く、延長の例不吉なり。同八月二十三日御脱シ、同九
  月二十九日御事有り。また常寧殿に入御の上は、猶遷幸に准うべきかと。助教申して
  云く、故右大将家奥州を攻めらるるの時軍陣に雷落つ。承久兵乱の時右京兆の釜殿に
  雷落つ。皆これ吉事なり。然れば怪異たるべからず。吉事に定むべしと。義村・行然
  ・康俊等申して云く、先規はこれを覚悟せず。現量の思う所を以て、ただ御所を去ら
  しむべきか。但し是非に付き御占いを行わるべしと。仍って一揆するの間、助教陰陽
  師等七人(去る六日鷺の事を占う同人数)を召す。各々同廊に参候す。将軍家簾中に
  御坐す。相州・武州・義村・行西等御前に祇候す。師員伝え仰せて云く、去る九日雷
  落の事、若くは忌むべきの事有りと雖も、関東の先例に於いては還って吉事と謂うべ
  きか。而るに御所を去らしめ給うべきの由申す人々有り。何様たるべきや、各々計り
  申すべしてえり。泰貞朝臣申して云く、大内以下所処雷落ちること常事なり。御占い
  はこれを行わると雖も、左右無く御所を去らしむの先例覚悟せず。然かれば御占いに
  決せらるべしと。晴賢申して云く、雷落ちる所居住すべからずの由、先祖晴道会釈の
  上、金匱経並びに初学記の文等不快なり。去らしめ給うべしと。彼の経等師員これを
  披見す。親職・晴幸申して云く、鷺と雷雨と怪異重疉しをはんぬ。尤も避けしめ給う
  べしと。国継泰貞の儀に同ず。重宗申して云く、京辺雷落ちるの所々、去られざるの
  上は、この御所に限り、その儀有るべからずと。師員云く、後京極殿は将軍家の御先
  祖なり。大炊殿に御坐すの時、雷落ちると雖もこれを避けしめ給わず。定めて御存知
  の旨有るか。彼の御子孫として、当摂録の御繁栄日に新たなり。佳例に非ずやと。晴
  賢答えて云く、御子孫の栄貴は左右に能わず。但し大炊殿程無く灰燼と為す。今に於
  いては、彼の跡荒廃し一宇の御所も無し。凡そ七八十寿算の人無きに非ざるに、僅か
  三十八にて御頓滅。最上の例に非ざるか。義村晴賢の返答を聞き、頗る甘心の気有り
  と。泰貞また云く、彼の家の吉事は御所を去るに能わず。また御祭有るべしと。是非
  に付き御占いを行わるべきの旨仰せらるるの間、泰貞・重宗、去る九日酉の刻の如き
  は、一切別の御事無し。ほぼ宜しきの由占い申す。親職・晴賢・晴職は不快の由これ
  を申す。晴親・国継は半吉の由を申す。その後陰陽師等退座す。爰に評議有り。去り
  御うべからざるの由議定しをはんぬ。相州・武州・助教御前に参られ、事の次第を披
  露せしめ給う。仰せに云く、先度の鷺の事に依って去り御うべきやと。武州また廊に
  出られ、陰陽師等を召し、本座に於いて御占いを行わる。去らしめ御うの條尤も然る
  べきの由、一同これを占い申す。仍って武州の亭に入御有るべきの旨各々定め申し、
  退出せらると。
 

6月16日 丙子 晴
  美濃の国の飛脚参り申して云く、去る九日辰の刻、当国蒔田庄に白雪降ると。武州太
  だ怖畏せしめ給う。徳政を行わるべきの由沙汰有りと。濃州と武州と両国の中間、す
  でに十余日の行程なり。彼の日同時にこの怪異有り。尤も驚くべしと。凡そ六月中雨
  脚頻りに降る。これ豊年の瑞たりと雖も、涼気法に過ぐ。また穀定めて登らざるか。
  風雨の不節は、則ち歳飢荒有りと。当時関東政途を廃せず。武州殊に戦々兢々として
  善を彰し悪を瘴し、身を忘れ世を救い御うの間、天下帰往の処、近日時節の依違、陰
  陽不同の條、直なる事に非ずや。就中当月白雪降る事、その例少なきか。孝元天皇三
  十九年六月雪降る。その後二十六代を歴て推古天皇の御宇三十四年六月大雪降る。ま
  た二十六代を歴て醍醐天皇の御宇延長八年六月八日大雪降る。皆不吉なり。今また二
  十六代(但し九條帝を加え奉る)を経て、今月九日雪下る。上古猶以て奇と成す。況
  や末代に於いてをや。
 

6月18日 戊寅 晴
  戌の刻修理の亮平朝臣時氏逝去す(年二十八)。去る四月京都より下向す。幾日月を
  経ず病脳す。内外の祈請を致され、数箇の医療を加うと雖も、皆以てその験を失う。
  去る嘉禄三年六月十八日次男卒す。四箇年を隔て、今日またこの事有り。すでに兄弟
  の御早世、愁傷の至り喩えに取るに物無し。寅の刻に及び、大慈寺傍らの山麓に葬る
  と。葬礼の事、陰陽の大允晴憲門生刑部房を挙げ申すと。
 

6月22日 壬午 晴
  鷺の変に就いて、将軍家御所を去り御う事、匠作卒去の事に依ってこれを止めらると。
 

6月23日 癸未 天晴 [明月記]
  去る十八日修理の亮時氏逝亡の由これを聞くと。一家の磨滅と。夜に入り宰相示し送
  る。行兼明暁下向す。駿河馳せ下らんと欲す。相門より再三子細を示され止めをはん
  ぬ。
 

6月24日 甲申 天晴 [明月記]
  駿河の守重時抑留の詞に拘わらず明暁馳せ下らんと欲すと。河東一人も無くば、天下
  定めて夜討ちの場たるか。

[百錬抄]
  銭一貫文を以て、米一石に直さるべきの由宣旨を下さる。
 

6月28日 戊子
  後藤判官の大倉の宅に於いて評定せらる。日来武州の御亭に於いてこれを行わる。禁
  忌に依って今この儀に及ぶ。
 

6月29日 己丑 天晴 [明月記]
  関東右府の十三年下向招請の気これを聞く。言家已下と。秉燭以後侍従関東出家の輩
  の異名を送る。すでに以て数十人、古今貴賤の亡者未だ聞かず。この事、頗る直成る
  事に非ざるか。