1230年 (寛喜2年 庚寅)
 
 

12月4日 [皇帝紀抄]
  興福寺の衆徒、東大寺勅封倉の盗人を搦め取る。御鏡八面皆打ち破りをはんぬ。
 

12月5日 壬戌 晴
  客星出現すと。親職これを申す。
 

12月6日 [百錬抄]
  左少弁時兼朝臣東大寺勅封倉を開かんが為南都に下向す。去る月比盗人彼の宝蔵を穿
  つの間、御物等検知せんが為なり。
 

12月7日 甲子
  周防の前司親實の奉書を以て、客星出現か否か、広く天文道に尋ねらると。
 

12月9日 丙寅 雨雪降る
  将軍家(御年十三)御嫁娶の事内々その沙汰有り。助教師員の奉行として、親職・晴
  賢等の朝臣を召し日次の事を仰せらる。二人共今明両日を撰び申す。而るに明日は天
  狗下食なり。然るべからざるの由、季氏これを難じ申す。師員を以て、両日中猶勝と
  為すべきは何ぞや。且つは明日の事難を加う輩有るの旨重ねて尋ねらる。各々申して
  云く、皆吉日たりと雖も、今日は先例勝ちなりと。次いで天狗下食の事全く憚らず。
  今に於いては還って吉例たりと。この上は左右に能わず。今日を以てこれを定めらる。
  仍って件の勘文を政所に遣わさるるの間、行然の奉行として、御儲けの如きの事沙汰
  を致せしむ。また泰貞に仰せ、吉時の勘文を召さる。亥の刻竹の御所(御年二十八)
  営中に入御す。これ御嫁娶の儀なり。縡楚忽に起こる。密儀たるの間晴儀に非ず。且
  つは御輿を用いられ、小町大路を経て南門に入御す。雑色二人松明を取り前行す。供
  奉人は越後の守(期に臨み障る。憚り有るが故なり)・式部大夫政村・大炊の助有時
  ・周防の前司親實・左近大夫将監佐房・上野の介朝光(以上布衣、騎馬)・隠岐三郎
  左衛門の尉・同四郎左衛門の尉・佐原十郎左衛門太郎・佐々木の八郎(以上白の直垂、
  歩行)等なり。相州(白襖の狩衣)・武州(香の狩衣)御輿寄せに候せらると。
 

12月10日 丁卯
  申の刻雷鳴。
 

12月11日 戊辰
  今暁客星猶出現す。京都は去る月二十八日出現す。天文博士惟範朝臣最前に奏聞すと。
 

12月15日 壬申
  鶴岡の放生会遂行せらる。
 

12月16日 癸酉
  同弓場の儀なり。流鏑馬第十番、二的中たらずと。

[明月記]
  巷説、大夫の尉惟信(惟義嫡男、承久合戦の後逃げ隠る)法師として、日吉八王子の
  庵室に隠居す。武士この事を聞き、搦め出さるべきの由座主に申す。門徒の悪僧を以
  て一昨日搦め取らる。武士粟田塔前に向かい、その夕請け取りをはんぬと。戦場を逃
  げ十年隠居す。奇謀と謂うべし。搦めらるるの時その力強しと雖も抜刀に及ばずと。
 

12月22日 己卯 朝天漸晴 [明月記]
  惟信法師搦め取らるるの後、年来同意の輩露顕す。三人召し取らる。山僧の律師・仁
  和寺の僧一人・掃部の助時盛近習の中、江中務と号す男(本惟義郎等と)一人その内
  に在り。またこの事を告げる法師猶忠に処せられず。猶召し籠めらる。今朝関東の飛
  脚を発遣す。
 

12月25日 壬午 晴
  今日勝長寿院の新造御塔供養なり。巳の刻将軍家御出で(御布衣)。御台所御同車。
  相州・武州以下数輩供奉す(布衣、騎馬)。午の一点供養の儀有り。これ故右大臣家
  十三年の御追善なり。行西これを奉行す。正日は明年正月二十七日たりと雖も、沙汰
  有りこれを引き上げらる。導師は当院の別当卿法印良信、願文は文章博士菅原公良朝
  臣これを草す。酉の一刻御仏事訖わり、還御す。夜に入り将軍家並びに御台所御方違
  え、竹の御所に入御す。