1231年 (寛喜3年 辛卯)
 
 

1月1日 戊子
  椀飯(相州御沙汰)。御劔は駿河の前司これを持参す。
 

1月6日 癸巳 風吹く
  二所御奉幣御進発の間の事、その沙汰有り。師員・親實等これを奉行す。
 

1月8日 乙未
  心経会。将軍家出御す。
 

1月9日 丙申 天晴
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。二條侍従御車を寄す。式部大夫政村(布衣)御劔を役す。
  武州(布衣)供奉し給う。官人は大夫判官基綱・伊東判官祐時。還御の後相州の亭に
  入御す。この事、御弓始め去る七日たるべきの由その定め有るの処、彼の日は甲午な
  り。承久元年正月二十七日甲午、右大臣家宮中に於いて御事有り。慎まるべきかの由、
  傾け申すの輩有るに依って延引す。
 

1月10日 丁酉 晴
  将軍家御方違えとして竹の御所に入御す。去年立春御方違えの後、四十五日に相当た
  るに依ってなり。
 

1月11日 戊戌
  御弓始め(一五度)。
 

1月14日 辛丑
  亥の刻大倉観音堂西の辺下山入道の家失火す。余焔に依って唐橋中将の亭並びに故左
  京兆の旧宅及び二階堂大路両方の人家等焼きをはんぬ。
 

1月16日 癸卯 寅の刻雨降る。巳以後晴に属く
  未の刻米町の辺失火す。横町に及び南北六町余災す。出羽の前司の宅この内に在り。
 

1月18日 乙巳 朝天陰 [明月記]
  申の時ばかり宰相来たり。(略)二十二日八條朱雀故関東右大臣後家の堂供養、東方
  より布施取り相国に申せらる。人々催し遣わさる。
 

1月19日 丙午
  去る夜子の刻より午の一点に及び白雪降る。積もること三寸。今日二所奉幣の御使式
  部大夫政村朝臣進発す。御台所の御使は牧右衛門の尉と。同じく進発す。

[明月記]
  夜に入り賢寂門前に来たり。寒夜に依って相逢うこと能わず。宰相奉幣使を勤む。彼
  の日以前入るべからざるの由示し含む。讃州公文左衛門の尉信綱身病の由を称し、子
  息の男参らしむの由を申す。相具し来たると。名簿に有り。信綱子息廣綱と。佐々木
  兄弟同名か。初参の志神妙の由これを答えをはんぬ。この男相門より命ぜらるるの後、
  弘田の事虚言の未済無し。田舎に於いては存外の事か。
 

1月20日 丁未
  卯の刻鶴岡の別当法印御所に申し入れて云く、当宮石階の西の辺梅木有り。山鳩二つ
  彼の樹に居て、今日まで八箇日未だ立ち去らずと。
 

1月24日 辛亥
  御台所鶴岡八幡宮に御参り。左近大夫将監佐房・周防の前司親實・上野の介朝光以下
  十余人供奉す。
 

1月25日 壬子 霽
  未の刻名越の辺失火す。越後の四郎時幸・町野加賀の守康俊の宿所等災す。同時に甘
  縄辺の人家五十余宇焼失す。放火と。

[明月記]
  申の時ばかり家長朝臣来たり談る。巷説月来一定の由悦びを成す。相待つの処、相違
  の由を承り甚だ遺恨の故来訪す。今日幕下の亭を訪う。関東の聴を憚からるかの由命
  ぜらると。彼是の説実否驚奇す。
 

1月27日 甲寅 天晴陰 [明月記]
  早旦有長朝臣来臨す(御使の由)。季有仰せ含めらるるの旨、昨日この朝臣に付く。
  遠所の聴を憚からるの説出来す。殊に承り歎くの由これを申す。その條先ず是非に及
  ばず。思し食し寄らざる事と。(略)宰相適々来るなり。日来の事等少々これを聞く。
  去る二十二日八條堂供養(ただ本寝殿を以て堂と為し、武士その門に陣列す)。
 

1月29日 丙辰
  関東祇候の諸人過差を止むべきの由定めらると。