1231年 (寛喜3年 辛卯)
 
 

2月2日 己未
  御所の台所南方に曳き移さる。周防の前司これを奉行す。
 

2月6日 癸亥 天晴 [明月記]
  去る夜北辺毘沙門堂の南群盗入ると(近隣殊に頻りなり)。巳の時ばかり聞書到来す。
  雑任甚だ多し。従四上頼経(少将元の如し)。
 

2月9日 丙寅 霽
  勝長寿院内新造の御塔に於いて始めて修正を行わる。導師は良信法印。
 

2月11日 戊辰 晴
  酉の刻足利左馬の頭の若宮馬場の本宿所失火焼亡す。放火かの由その疑い有りと。
 

2月12日 己巳 霽
  申の刻京都の使者参る。去る五日、将軍家従四位下(少将元の如し)に叙せしめ給う。

[明月記]
  晩鐘の程御産の御気色を聞く。不審に堪えず西殿に参る。(略)雑人等御座すでに成
  るの由を称す(巳の二刻か)。侍等走り来たりて云く、皇子降誕。両人重ねて問うに、
  一定甑すでに南面に落つ。疑い無きの由人毎にこれを称す。これを聞き感涙忽ち催す。
  来る人毎に重ねてこれを問う。猶々一定の由を称す。
 

2月21日 戊寅
  御所侍二ヶ間これを作り継がる。防州同奉行たり。今日京都の飛脚参着す。去る十二
  日中宮(将軍家御姉)御平産。皇子降誕の由これを申すと。
 

2月23日 庚辰
  将軍家の御祈りとして、鶴岡八幡宮の宝前に於いて仁王会を行わる。去る月十三日以
  後八箇日、山鳩宮寺石階下の梅木に集まり立ち去らざる事、御占いを行わるるの処、
  上方の御慎みに非ず、宮寺口舌の闘諍を慎むべきの由占い申しをはんぬと。