1231年 (寛喜3年 辛卯)
 
 

3月1日 丁亥 雨降る
  女房の局に於いて勝負有り。両国司・同室家等参らると。
 

3月2日 戊子 晴
  晩景、将軍家御足の大指、刀を以て突き切らしめ給うの間血出づ。諸人群参し、御所
  中騒動すと。然れども殊なる御事無しと。
 

3月3日 己丑
  鶴岡の神事なり。御台所御参宮。今日将軍家始めて春日別宮を拝せしめ給う。これ四
  品に叙し給うの後、始めてその袍を着け御う。仍って拝賀に准えられ、彼の社に参り
  御うべしと。四位の袍を着け給う事、日次を撰ばるべきの由その沙汰有りと雖も、公
  卿の後の直衣始めはその日を撰ぶの例なり。四品の袍始めの事、必ずしもその儀に及
  ばざるかの由、有識申せしむの間、ただ凡て吉日を用いらると。

[明月記]
  今日聞く。貞暁法印(鎌倉右大将の息、年四十六)逝去す。二十年に及び高野山に籠
  居す(不食病、臨終正念と)。母の禅尼彼の悲歎に依ってまた時を待つ(行寛扶持、
  件の禅尼共摂州に在りと)。
 

3月6日 壬辰 晴
  京都より新調の御車を下さる。これ御台所の御車なり。
 

3月9日 乙未 霽
  六波羅の飛脚到来す。去る月二十日、仁和寺の法印御房(貞暁、四十六)高野に於い
  て御入滅と。これ幕下将軍家の御息、御台所の御伯父なり。仍って御軽服の間竹の御
  所に入御す。
 

3月10日 丙申 晴
  駿河の三郎光村使節として上洛す。皇子御誕生の事を賀し申さるるに依ってなり。
 

3月15日 辛丑 晴
  永福寺恒例の舎利会、将軍家渡御す。御台所御同車。相州・武州参らる。
 

3月16日 壬寅 霽
  武蔵大路の下の民家一宇焼失す。これ或いは青女嫉妬に依って、焼死せんが為自ら放
  火すと。

[皇帝紀抄]
  童一人清涼殿に登り参り、昼の御座の御劔を盗み取るの間、蔵人一臈判官繁茂、殿上
  に於いて彼の童を捕え留む。件の盗人は法成寺執行の中童子と。
 

3月19日 乙巳
  今年世上飢饉。百姓多く以て餓死せんと欲す。仍って武州伊豆・駿河両国の間、出挙
  米を施しその飢えを救うべきの由、倉庫を有する輩に仰せ聞かさる。豊前中務の丞こ
  れを奉行す。件の奉書御判を載せらるると。
   今年世間飢饉の間、人民餓死の由風聞す。尤も以て不便なり。爰に伊豆・駿河の両
   国出挙せしむの輩、始め施さざるに依って、いよいよ計略を失うと。早く出挙を施
   行せしむべきの由仰せ下さるる所なり。兼ねてまた後日もし対捍有らば、注し申す
   に随い御沙汰有るべきの由候なり。仍って執達件の如し。
     寛喜三年三月十九日      中務の丞實景(奉る)
   矢田六郎兵衛の尉殿
 

3月26日 壬子 終夜甚雨 [明月記]
  左中将頼経。