1231年 (寛喜3年 辛卯)
 
 

4月2日 戊午
  河越の三郎重員は武蔵の国惣検校職なり。当職に付いて四箇條の掌事有り。近来悉く
  廃たれをはんぬ。仍って例に任せ執行すべきの由、武州に愁い申すの間、岩原の源八
  経直の奉行として、今日留守所に尋ね下さると。
 

4月4日 庚申
  天変の御祈り等を行わるべきの旨仰せ下さると。
 

4月5日 辛酉 晴
  去る月二十五日の除目の聞書到着す。将軍家右近中将に転ぜしめ御うと。
 

4月11日 丁卯
  天変御祈りの御修法これを始行す。所謂不動(信濃法印)・降三世(大進法印)・軍
  茶利(丹後僧都)・大威徳(宰相法印)・金剛夜叉(若宮別当)・一字金輪(卿法印)。
 

4月14日 庚午 陰
  月蝕、虧初は丑の七刻、復末は寅の一刻。現れずと。
 

4月15日 辛未
  未の刻地震。
 

4月17日 癸酉 晴
  京都の使者参着す。中宮御入内の賞に依って、去る八日将軍家正四位下に叙せしめ御
  うの由これを申す。
 

4月19日 乙亥
  風雨水旱の災難を祈らんが為、諸国国分寺に於いて最勝王経を転読すべきの旨、宣旨
  状去る夜到着す。仍って今日民部大夫入道行然の奉行として、政所に於いて、関東分
  国施行すべきの由その沙汰有り。申の刻相模の四郎朝直の室(武州御女)男子平産す。
 

4月20日 丙子
  河越の三郎重員の本職四箇條の事、去る二日留守所に尋ね下さる。秩父権の守重綱の
  時より畠山の次郎重忠に至るまで奉行し来たるの條、重員申状に符号するの由、在廰
  散位日奉實直・同弘持・物部宗光等の去る十四日の勘状、留守代帰寂の同十五日の副
  状等到来す。仍って相違無く沙汰致すべきの由と。
 

4月21日 丁丑
  承久兵乱の後諸国郡郷庄保の新補地頭所務の事、五ヶ條の率法を定めらる。また六波
  羅に仰せ遣わさるる條々、先ず洛中諸社の祭日、非職の輩武勇を好む事停止すべし。
  次いで強盗・殺害人の事、張本に於いては断罪に行われ、与党の者に至りては、鎮西
  の御家人在京の輩並びに守護人に付け下し遣わすべし。兼ねてまた盗犯人の中、仮令
  銭百文若くは二百文の程の罪科の事、此の如き小過は、一倍を以てその弁えを致すべ
  し。重科の輩に於いては、その身を召し取ると雖も、同心せざる縁者・親類に至りて
  は、煩費を致すに及ぶべからずと。
 

4月25日 [百錬抄]
  亥の刻、大炊御門堀川火有り。東風頻りに吹き、郁芳門焼亡す。大炊以後この災無し。
  額焼失しをはんぬ。
 

4月27日 癸未 晴
  申の刻地震両度。
 

4月28日 甲申
  酉の刻御所北の対の辺怪鳥集まる(水鳥の類か。その鳥黒く翌日死す)。少々見知る
  の人有りと雖も、その名分明ならずと。
 

4月29日 乙酉
  昨日の鳥の事に就いて御占いを行わる。泰貞・晴賢・晴幸・重宗・宣賢・成光等参上
  す。病事なり。また女房に就いて病事を聞こし食すべきの由これを占い申す。夜に入
  り御祈り等を行わると。今日新判官光村京都より帰参す。使節の賞に依って、去る十
  四日使の宣旨を蒙ると。皇子降誕の事賀し申さるるの御使なり。