1232年 (寛喜4年、4月2日 改元 貞永元年 壬辰)
 
 

1月1日 壬午 晴
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。午の一点御出で(御束帯・御車)。駿河判官光村供奉す。
  和泉の守政景御劔を持つ。佐原五郎左衛門の尉御調度を懸くと。還御の後椀飯の儀有
  り。相州これを沙汰す。陸奥式部大夫御劔を持参す。
 

1月4日 乙酉
  後鳥羽院御時の朝覲行幸の絵、京都よりこれを進せらる。将軍家今日御覧有り。陰陽
  権の助晴賢朝臣仰せに依って彼の詞を読むと。
 

1月5日 丙戌
  未の刻月太白経天を犯す(相去ること四寸の所)。去る貞応三年四月七日この変有り。
  同六月十三日右京兆卒亡す。凡そ和漢共佳例に非ず。而るに今年始たるに依って、天
  文道言い出さずと。
 

1月23日 甲辰 霽
  去る十二日朝覲行幸無為に遂げらるるの由、京都よりこれを申さる。閑院より持明院
  殿に幸すと。武州仰せられて云く、当年十二日山内に向かわんと欲するの処、或る人
  道虚日憚り有るの由申すの間延引す。而るに朝覲を遂げらるるの由、今その聞こえ有
  り。定めてこれ先規を勘がえらるるか。この日を以て吉事に用いらるるの例、尤も不
  審と。玄蕃の允康連・齋藤兵衛入道浄圓・法橋圓全等折節御前に候す。浄圓・圓全等
  申して云く、彼の例未だ承り及ばず。ただ古今の際、貴賤忌み来たるの由これを計り
  存ずと。康連所見有るの由これを申す。武州重ねて尋ね仰せらるるの間、座を起ち即
  ち一紙を持参しこれを進覧す。武州殊に御自愛、御文書の中に入れらるると。彼の記
  に云く、
     道虚日吉事に用いらるる例
   長和五年二月三十日、左大臣(御堂)兵杖を給う事(年月二十四日六條内裏に渡御
             以後)
   延久年月日、宇治殿御賀を行わるる事
   寛和元年四月十二日、大殿随身を賜うの後慶びを申し給う事
   天喜五年十二月二十四日、但馬の守五位蔵人に補すの後、初めて慶びを申す。
   承保元年十月三十日甲午、大甞會御禊ぎを行わるる事(白河院)
   永保三年十一月十二日癸丑、宇治泉殿の舎屋等造加せらるの後、殿下京極殿渡御の
                事
   寛治元年六月二十四日甲辰、摂政初度の御上表の事(京極殿先例なり)
   同二年二月十八日乙未、除目を行わるる事、少将殿(忠)慶び申さる。
   康和元年十月六日甲辰、大将殿朱器を渡さるる事(宇治入道殿)
   同十二日庚戌、前の齋院(令子)始めて大殿に渡御する事
   同五年四月六日甲寅、阿闍梨寛信慶びを申す事