1232年 (寛喜4年、4月2日 改元 貞永元年 壬辰)
 
 

10月2日 戊寅
  将軍家の御願として、精舎を大倉に建てらるべき事、今日日時定め有り。親職・晴賢
  ・晴幸・重宗・宣賢・泰宗等を召し出し、御前に於いて直に尋ね仰せらる。且つは春
  間の吉曜を撰び申すべしと。各々申して云く、春季中に於いては一切吉日無し。十月
  二日上吉たり。立堂の事六勝寺例の由、成勝寺これを外し悉く佳例なり。尤もこれを
  用いらるべきかと。仍って治定すと。

[百錬抄]
  前の関白の里第に於いて、譲位を定めらるる事、應徳の例に依ってなり。権中納言定
  家寛平の国史を注出す。今度彼の例を追うべしと。
 

10月4日 [五代帝王物語]
  主上御位を避て春宮に譲たてまつる。御年二歳いつしかなるうへ、先例もよろしから
  ずおぼえ侍き。

[百錬抄]
  譲位の事有り。彗星の変に依って譲りたるなり。十月の例先規無きか。今度始めなり。
  上皇猶禁裏に御す。
 

10月5日 辛巳 晴
  去る月二十八日より今暁に至るまで、彗星連夜出現す。光芒微薄と雖も乾方を指し南
  に見ゆ。長四丈。今日御台所の御堂地の事、その沙汰有り。これ兼日弁阿闍梨の地を
  点ぜらるると雖も、本主愁い申すに依ってこれを止めらる。法華堂下の地、また以て
  相叶わざるの間、その地を大倉観音堂の傍らに求めらる。大多和左衛門の尉の地頭た
  るべきの間、武州計り申せしめ給う。親職・晴賢然るべきの由言上す。但し地相は金
  蔵房これに難を加う。彼の所の西透地なり。頗る不快と。親職等相論に及ぶ。棄損し
  その地を大慈寺郭内に儲けらると。夜に入り御台所御方違えの為東御所に渡御す。
 

10月7日 癸未
  今日始めて御堂地を大慈寺内に曳く。信乃民部大夫入道行然・大和籐内左衛門の尉久
  良等これを奉行す。
 

10月14日 庚寅 晴
  去る四日御譲位(春秋二歳)の由、京都よりこれを申さると。夜に入り天変の御祈り
  の為、御所に於いて七壇の北斗護摩を始行せらる。弁僧正定豪伴僧を率い参行す。

[百錬抄]
  今夜、上皇禁省より冷泉富小路亭に御幸す。大臣已下供奉す。中宮同じく以て行啓す。
 

10月17日 癸巳
  不空羂索護摩同じくこれを行わる。安祥寺法印勤仕せらると。
 

10月22日 戊戌 天晴
  将軍家の御願として、明年五大尊堂を立てらるべき事、未だその地を議定せられず。
  人々に仰せ勝地を求めらる。毛利蔵人大夫入道西阿領す大倉の奥地、然るべきの由そ
  の沙汰有り。今日仰せに依って、相州・武州、親職・晴賢・文元・珍譽・金蔵等を相
  具し監臨し給う。毛利入道・摂津の守・駿河の前司・隠岐入道・後藤大夫判官・伊賀
  式部入道等同じく参進す。地形勝絶の趣、日来方々に巡検するの由各々定め申す。仍
  ってこの地たるべきの由思し食さると。
 

10月29日 乙巳
  午の刻以後雷鳴、夜に入り甚雨。今日五大尊堂を建立せられんが為、その詣往道を造
  るべきの由、その沙汰有りと。