1232年 (寛喜4年、4月2日 改元 貞永元年 壬辰)
 
 

11月3日 己酉
  五大尊堂のその地引き始めらる。また道路を造らると。
 

11月9日 乙卯
  御堂詣往の路を造らるべきに依って、今夜よりその所に於いて土公を七ヶ日の間祭ら
  る。陰陽師相替わりこれを勤むべしと。
 

11月13日 己未
  飢饉に依って、貧弊民を救うべきの由、武州仰せらるるの間、矢田六郎左衛門の尉す
  でに九千余石の米を下行しをはんぬ。而るに件の輩今年弁償に拠無きの間、またこれ
  を愁い申す。明年の糺返を相待つべきの趣、重ねて矢田に仰せらると。凡そ去今年の
  飢饉、武州撫民の術を廻らさるるの余り、美濃の国高城西郡大久礼以上千余町の乃貢、
  進済の儀を停めらる。平出右衛門の尉・春近兵衛の尉等を遣わし、当国珠河の駅に於
  いて往反の浪人等に施せらる。縁辺を尋ね上下向の輩に於いては、行程の日数を勘が
  え旅粮を与う。止住すべきの由を称すの族に至りては、この庄園に預け置くの間、百
  姓これを扶持せらると。
 

11月16日 壬戌
  御台所御方違えの為、本所に信濃民部大夫入道行然の家を点ぜらる。近日御堂を造ら
  るべきに依ってなり。
 

11月17日 癸亥
  夜に入り御台所御方違えの為、民部大夫入道行然の家に渡御すと。
 

11月18日 甲子
  御台所御願の御堂(大慈寺内)立柱・上棟と。
 

11月20日 丙寅
  今夜深雪、終夜休止せず。
 

11月21日 丁卯
  早旦将軍家雪を覧んが為竹の御所に渡御す。後藤大夫判官供奉す。即ち還御す。
 

11月23日 己巳
  陸奥の国平泉保の吉祥寺焼亡す。本尊は観自在菩薩なり。希代の霊像灰燼と為す。こ
  れ藤原清衡建立の梵宇なり。
 

11月28日 甲戌
  武州御当番として、今夜御所侍に宿せしめ給う。而るに御供侍御筵を持参す。御畳の
  上に布くべからず。人に昵近の者、爭かこの程の礼を弁えざるや。尤も傍輩の推察に
  恥じるの由仰せらる。出羽の前司・民部大夫入道以下の宿老両三輩その所に候しこれ
  を承る。周防の前司親實、この事末代の美談たるべきの由潛かにこれを感じ申すと。
 

11月29日 乙亥 早旦雪聊か降る
  庭上偏に霜色に似たり。将軍家林頭を覧んが為永福寺に渡御す。御水干・御騎馬なり。
  武州去る夜より未だ退出し給わず。即ち扈従し給う。式部大夫・陸奥の五郎・加賀の
  守康俊・大夫判官基綱・左衛門の尉定員・都築の九郎経景・中務の丞胤行・波多野の
  次郎朝定以下、和歌に携わるの輩を撰び召し御供と為す。寺門の辺に於いて卿僧正快
  雅参会す。釣殿に入御し、和歌御会有り。但し雪気雨脚に変わるの間、余興未だ還御
  に尽くさず。而るを路次に於いて基綱申して云く、雪雨の為宜無しと。武州これを聞
  かしめ給い、仰せられて云く、あめのしたにふれはそ雪の色も見る。基綱、みかさの
  山をたのむかけとてと。今日、六波羅の成敗法十六箇條これを仰せ下さると。