1232年 (寛喜4年、4月2日 改元 貞永元年 壬辰)
 
 

12月5日 庚辰
  故入道前の大膳大夫廣元朝臣存生の時、幕府の巨細を執行するの間、壽永・元暦以来
  京都より到来する重書並びに聞書、人々の款状、洛中及び南都・北嶺以下、武家より
  沙汰し来たる事の記録、文治以後の領家・地頭所務條々の式目、平氏合戦の時東士勲
  功の次第・注文等の文書、公要に随い右筆の輩方に賦り渡し、所処に散在す。武州こ
  の事を聞き、季氏・浄圓・圓全等をしてこれを尋ね聚めしめ、目録を整え、左衛門大
  夫に送らると。
 

12月12日 丁亥
  御祈りの為、御所に於いて寿命経並びに一万巻の心経を転読す。七箇日たるべしと。
 

12月18日 癸巳
  岩殿観音堂修理を加うの後、今日供養を遂ぐ。導師は三位僧都頼兼なり。滅門たるの
  由陰陽道難を加うと雖も、観音縁日に就いて、勧進聖人西願これを宥め用ゆと。
 

12月23日 戊戌
  武蔵の国惣検校職並びに国検の時の事書等、国中文書の加判、及び机催促加判等の事、
  父重員の譲状。河越の三郎重資、先例の如く沙汰を致すべきの由仰せらると。
 

12月24日 己亥 雪降る
  当時京都の事、大相国御記を進せらる。七月二十九日御即位叙位、今月二日御即位、
  五日行幸官廰、十二日摂政従一位拝賀、十四日秋の除目と。
 

12月27日 壬寅
  後藤大夫判官基綱の大倉堂供養。導師は弁僧正定豪。故右府将軍追善の奉為建立の功
  を成すと。
 

12月29日 甲辰
  在京の御家人は、大番の勤仕に能わざるの由定めらる。また禁中に於いて節会の時、
  大番衆の下人等見物の為参入するの間、嗷々狼藉の由その聞こえ有るに依って、これ
  を停止すべし。次いで和市売買の間、奸謀の輩所々に横行す。微粛を加うべしと。