1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

1月1日 丙午
  椀飯(相州御沙汰)。御劔(民部権の少輔)、御弓箭(近江の前司信綱)、御行騰沓(佐
  原三郎左衛門の尉家連)。
   一の御馬(鞍を置く) 式部大夫  陸奥の五郎
   二の御馬       相模の四郎 同六郎
   三の御馬       上野の七郎 同五郎
   四の御馬
   五の御馬   本間太郎左衛門の尉 同三郎左衛門の尉
 

1月2日 丁未
  椀飯(武州沙汰)。御劔(式部大夫、布衣)、御弓箭(上野の介朝光)、御行騰沓(出
  羽の前司家長)。
   一の御馬  相模の五郎      同六郎
   二の御馬  隠岐三郎左衛門の尉  同四郎左衛門の尉
   三の御馬  信濃左衛門の尉    同左近将監
   四の御馬  近江太郎左衛門の尉  同三郎兵衛の尉
   五の御馬  越後の太郎       同四郎
 

1月3日 戊申
  椀飯(越州沙汰)。御劔(式部大夫)、御弓箭(近江の前司)、御行騰沓(摂津左衛門
  の尉為光)。
   一の御馬  越後の太郎      本庄左衛門の尉
   二の御馬  越後の二郎      河原田太郎左衛門の尉
   三の御馬  越後の三郎      河原田籐内左衛門の尉
   四の御馬  越後の四郎      小伊手太郎左衛門の尉
   五の御馬  久下掾源内      同三郎
 

1月13日 戊午
  武州右大将家の法華堂に参り給う。今日御忌日たるに依ってなり。彼の砌に到り御敷
  皮を堂下に布き坐し給う。御念誦刻を移す。この間別当尊範参会せしめ、御堂上がり
  有るべきの由頻りにこれを申すと雖も、御在世の時、左右無く堂上に参らず。薨御の
  今、何ぞ礼を忘れんやの由仰せらる。遂に庭上より帰らしめ給うと。
 

1月29日 甲戌 [明月記]
  巳の時聞書を見る。権中納言籐頼経、右中弁光俊、(以下略)