1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

2月4日 己卯 朝より天陰 [明月記]
  言家朝臣の書状、関東の堂供養の事に依って明日また下向し、三月帰洛すべし。
 

2月7日 壬午 天晴 [明月記]
  関東の禅尼(往年知音、隆保朝臣妹)書状を送る。旧好の問答。未の時ばかりに東乃
  中務の丞と云う武士門前に来たり、家長朝臣の書状を付す。昨日より腰を損じ身動か
  ず。対面能わざるの由これを示す。門外より帰る。直垂を着すと。乗車その衣と乗物
  と相応せざるか。
 

2月20日 乙未 天晴 [明月記]
  静俊の書状、去る十七日(午の刻)、無動寺の門徒東塔南谷房二宇(大谷房・等覺房)
  を切る。十八日未の刻南谷より無動寺を襲い合戦す。三方より進み寄る。二方は追い
  返さる。今一手存外に谷底より打ち入り、房二宇(寶積房・仙壽房)を切る。うれし
  や水の曲はやして南谷に帰り入る。両方の死人多く、手を負う者その数有り。その後
  無動寺また南谷に寄すべきの由評定す。下法師無動寺境内の木を剪り、無動寺の法師
  これを刃傷す。南谷の下人その法師を殺すが故、この事出来すと。