1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

3月3日 丙申 小雨灑ぐ
  鶴岡八幡宮恒例の神事。将軍家御参宮。
 

3月5日 戊戌
  午の刻五大堂の鐘楼を立てらる。相州・武州参らると。
 

3月9日 壬寅 晴
  亥の刻大地震。
 

3月11日 甲辰
  天変地震の御祈り等を始行すと。
 

3月13日 丙午
  巳の刻地震、小動。
 

3月16日 己酉
  卯の刻大地震。今日、天変地妖等の事に依って、御祈祷・徳政等有るべきの由、武州
  の御亭に於いてその沙汰有り。師員朝臣奉行たりと。
 

3月18日 辛亥 晴
  相州・武州御所に参らる。五大堂供養の日時定め有り。陰陽師等参進し、各々定め申
  して云く、四月十一日上吉、同十八日下吉、五月五日上吉と。四月十一日は、縦え土
  木を終うと雖も、成功の荘厳出来すべからず。五月は毎年忌来たるか。四月下吉と五
  月上吉と、勝劣何様たるべきやの由群議有り。親職申して云く、五月堂供養の例繁多
  なり。五月の上吉憚り有るべからずと。晴賢申して云く、五月憚り来たる所のものは、
  元服・着袴・移徙・嫁取等の事なり。斎月たるに依って、仏事に於いては先例憚から
  ず。且つは正五九月修善すべきの由経文に載す。所謂法成寺釈迦堂惣持院、五月供養
  の精舎なり。宇治の一切経絵、五月これを始めらる。五月の上吉日を用いらるべしと。
  忠尚・宣俊・資俊・文元等これに同ず。仍って治定す。両国司これを承り定め、退出
  せらると。
 

3月25日 戊午
  武州の御亭に於いて、五大堂供養の日時の事重ねてその沙汰有り。これ五月五日供養
  を遂ぐべきの由、先日定められをはんぬ。件の日は鶴岡神事の式日なり。何様たるべ
  きやの由と。また陰陽道の輩を召し仰せ合わさる。忠尚以下申して云く、神仏の事一
  日の内に行わるるの例、これ多しと雖も、彼是共に大営たり。指し合うべくば、延引
  せらるべきかと。武州仰せて云く、然からば何日を用いらるべきやと。六月二十九日
  最吉の由、各々一同これを申す。仍って廷尉基綱に付け、この由を御所に申さると。
 

3月26日 己未 暁雲分つ [明月記]
  大殿また御摂録有るべし。明後日御拝賀と。殿の御有様また当時危急に及ばず、ただ
  日を追ってオウ弱所望無きに依って、この沙汰に及び給うと。

[玉蘂]
  頭の弁仰す、明後日詔書の事仰せなり。今日関東の飛脚、摂政労うの間の事。
 

3月28日 辛酉
  武州の御亭に於いて、五大堂供養の事、陰陽道の勘文を召す。昨日その沙汰有りと雖
  も、御所の御衰日たるに依って、今日に及ぶと。

[明月記]
  大殿より今日猶無為に御すやの由尋ね仰せらる。慈心澄月別の御事有るべからざるの
  由各々申す。圓譽只今危急の由、人の不請の気有るを聞く。彼の御雑言等以後、御形
  貌已下皆違例、死相すでに顕れしめ給う。辰の時に及び御喉鳴り、すでに事切らしめ
  給う。慈心先ず早出、次いで圓譽退出す。

[玉蘂]
  巳の刻閉眼。禁裡摂政の詔を下さる。閉眼終わり教行出家す。また愁歎す。出家有る
  事最も密儀なり。