1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

6月3日 甲子 朝天晴 [明月記]
  申の終わりばかり雑人の説に云く、南京の衆徒悪事を成し八幡に向かう。武士に仰せ
  られ八幡に発向すと。武田宇都宮(修理)すでに馳せ向かう。戎服美麗と。夜に入り
  聞く、各々六波羅に向かうと雖も、今夕帰家に向かわず、家猶用意すと。八幡(薪庄)、
  春日(大炭庄)占隣す。耕作の水を論じ、八幡庄民大炭庄民を打ち殺すが故、衆徒八
  幡を焼き払わんと欲すと。
 

6月4日 乙丑 朝天陰 [明月記]
  未の時金吾来たり。武士昨夕各々家に帰る。而るに去る夜、衆徒すでに発向の由夜中
  馳せ来たる使者有り。仍って馳せ向かうべきの由夜中催せらる。今朝未の時急ぎ六波
  羅に会す。見物人群を成す。日の出の刻限に皆発つ由。その中修理の亮泰綱のその士
  卒員多きに依って、赤江淀の渡船少なくして、一日に渡り得るべからず。夜中人を遣
  わし木津河の瀬を踏ましむ。歩渡りの所有るの由来たり告ぐ。仍って一人宇治路に向
  かうべきの由これを企つ。河原に於いて打ち分け法性寺方に向かう。その勢五百騎、
  行粧鞍馬以下美麗他に異なる。衆徒を距て八幡を焼かしむべからざるの由、仰せを蒙
  ると雖も、衆徒の所行兼ねて存すと雖も、制法に拘わらざる者有り。その後の事如何。
  陣後に臨み是非を申すに能わざるかの由、兼ねて不審を成すと。
 

6月7日 戊辰 夜より陰 [明月記]
  武士猶八幡に在りと。衆徒薪庄を焼き早帰するの間、大炭庄の廰住人後群す。逐北の
  武士三人を生虜る。これ彼の庄の張本、また群盗を截る張本と。
 

6月9日 庚午 朝天猶陰 [明月記]
  金吾来たり。武士猶帰らず。両社所論の堺実検使を遣わすと雖も、南京使来たらず。
  而るを実検を遂げず帰ると。
 

6月10日 辛未
  将軍家の御祈り百日の泰山府君祭始行す。忠尚朝臣これを奉仕す。
 

6月16日 丁丑
  地震の御祈り等始行す。
 

6月19日 庚辰
  五大堂の洪鐘を鋳らる。而るに今日これを鋳損ず。奉行人周防の前司鋳物師を勘発せ
  んと欲するの処、陳じ申して云く、銅不足に依って此の如し。銅を加えらるべきかと。
 

6月21日 壬午
  洪鐘鋳改めらるべきの由、御所に於いてその沙汰有り。周防の前司これを奉行す。来
  二十九日の御堂供養以前、早旦この儀有るべしと。

[明月記]
  今夜所縁の入道次女(本小笠原の妻、離別)その身固辞すと雖も、父強いて勧め千葉
  の八郎に嫁せしむ。
 

6月28日 己丑
  今夜、新造の精舎に於いて解謝祭等を行わる。大鎮(親職朝臣)、大土公(晴賢朝臣)、
  大将軍(文元朝臣)、王相(廣頼朝臣)。また供養の間、魔の障りを避けんが為、南
  方高山祭を名越山上に行わる。弁法印良算これを奉仕す。毛利左近蔵人親光御使たり。
 

6月29日 庚寅 朝間々雨降る、巳以後霽に属く
  寅卯の両時新造の御堂の安鎮を行わる。弁僧正(定豪)これを修す。また洪鐘(高五
  尺二寸、径四尺四寸)を鋳直さる。先日銅銭三百貫文を以てこれを鋳損ず。今度三十
  余貫成功す。殊勝と。東大寺の洪鐘は三箇度これを鋳直さる。法勝寺の鐘は、承暦二
  年十二月二日これを鋳損じ、後日改めらると。辰の刻鐘を懸く。同時に五大明王像(不
  動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉なり)を堂中に安置し奉る。巳の二点、明王
  院(五大尊堂)供養有るべきに依って、将軍家御参堂の為出御す(御束帯・御劔・笏)。
  西廊西向に於いて反閇有り。忠尚朝臣奉仕す。同東方に出て禄(蘇芳の生衣一領)を
  給う。左近大夫将監佐房(布衣)これを取る。忠尚左肩に懸く。その後南門より御出
  で。小町大路北行、塔の辻東行。
  御出の行列
  先陣の随兵
   上総の介常秀      駿河の前司義村
   小山五郎左衛門の尉長村 筑後図書の助時家
   城の太郎義景      宇都宮四郎左衛門の尉頼業
   足利の五郎長氏     越後の太郎光時
   陸奥式部大夫政村    相模の六郎時定
  御車(路次の間御劔の役人無し)
   上総の介太郎      大須賀次郎左衛門の尉
   小野澤の次郎      宇田左衛門の尉
   伊賀六郎左衛門の尉   佐野三郎左衛門の尉
   大河戸太郎兵衛の尉   江戸の八郎太郎
   本間次郎左衛門の尉   安保三郎兵衛の尉
   平岡左衛門の尉
    以上直垂・帯劔、御車の左右に列歩す。
  御調度懸け
   加地八郎左衛門の尉信朝
  御後五位六位(布衣下括り、六位弓矢を帯す)
   前の民部少輔       相模式部大夫(寺門内御劔を役す)
   北條の彌四郎経時     駿河の次郎泰村
   陸奥の太郎實時      左衛門大夫泰秀
   左近大夫将監佐房     修理の亮泰綱
   大膳権大夫師員      木工権の頭仲能
   加賀の前司康俊      出羽の前司家長
   駿河四郎左衛門の尉家村  佐原新左衛門の尉胤家
   三浦又太郎左衛門の尉氏村 関左衛門の尉政泰
   宇佐美籐内左衛門の尉祐泰 下河邊左衛門の尉行光
   薬師寺左衛門の尉朝村   近江四郎左衛門の尉氏信
   河津八郎左衛門の尉尚景  摂津左衛門の尉為光
   笠間左衛門の尉時朝    信濃次郎左衛門の尉行泰
   隠岐三郎左衛門の尉行義  内藤七郎左衛門の尉盛継
   武藤左衛門の尉景頼    □弥次郎左衛門の尉親盛
   和泉六郎左衛門の尉景村  長掃部左衛門の尉
   弥善太左衛門の尉康義   桿垂左衛門の尉時基
   大曽禰兵衛の尉長泰
  後陣の随兵
   河越掃部の助泰重     梶原左衛門の尉景俊
   氏家の太郎公信      壱岐の三郎時清
   後藤次郎左衛門の尉基親  伊東三郎左衛門の尉祐綱
   佐竹の八郎助義      武田の六郎信長
  検非違使
   駿河大夫判官光村     後藤大夫判官基綱
  堂中に入御す。両国司参り儲けらる。午の二点供養の儀有り。曼茶羅供なり。執行は
  師法橋快深、会場の事を奉行す。願文は大蔵卿為長これを草す。清書は内大臣(實氏
  公)。酉の刻事終わり還御す。
  大阿闍梨
   弁僧正定豪(当寺別当)
  職衆二十二口
  (別当定豪これを請う)(当寺供僧)          (同供僧)
    鳥羽法印忠遍   助法印厳海   大夫法印光寶   師僧都定基
  (供僧)     (供僧)              (鶴岡供僧)
    左大臣法印兼盛  宮内卿僧都承快 大納言法印良全  大納言僧都定親
  (当寺供僧)                     (鶴岡供僧)
    加賀律師定清   宰相律師定俊  宰相律師圓親   大蔵卿律師定雅
    三位阿闍梨範乗  少将阿闍梨實杲 大納言阿闍梨隆弁 越後阿闍梨定憲
    宰相阿闍梨長全  宰相内供定宗  因幡阿闍梨定弁  兵部卿阿闍梨親遍
    少納言阿闍梨定瑜 大夫律師良賢
  布施
   導師分
    被物三十重(色々) 裹物一(染絹十五端を納る) 白綾三十疋
    染綾三十疋   斗帳三十疋   顕文紗三十端  丹後絹三十疋
    巻絹三十疋   染付三十巻   唐綾三十端   筋斗帳三十疋
    紫村濃三十端  紫三十端    綾地三十端   紺村濃三十端
    帖絹三十疋   絹浅黄三十端  紺染絹三十疋  白布三十段
    紺布三十段   藍摺三十端   色革三十枚   香炉筥一
    居筥一     水精念珠(銀の打敷在り)    横皮(銀の打敷在り)
    法服一具    香染衣一具   上童装束一具  宿衣一領
  加布施
   砂金百両(銀の打敷在り) 野劔一腰(銀の長覆輪、銀の袋在り)
  この外供米二十石
   馬十疋
    一疋 佐原太郎兵衛の尉    多気次郎兵衛の尉これを引く
    一疋 長尾平内左衛門の尉   同三郎兵衛の尉
    一疋 信濃三郎左衛門の尉   壱岐五郎左衛門の尉
    一疋 和泉次郎左衛門の尉   同五郎左衛門の尉
    一疋 小野寺小次郎左衛門の尉 同四郎左衛門の尉
    一疋 長三郎左衛門の尉    同四郎左衛門の尉
    一疋 豊田太郎兵衛の尉    同次郎兵衛の尉
    一疋 豊前太郎左衛門の尉   布施左衛門の尉
    一疋 山内の籐内       同左衛門太郎
    一疋 中澤次郎兵衛の尉    同十郎
  職衆分(口別)
    被物十重(色々 )   裹物一   白綾十端  色々絹十端
    巻絹十疋  帖絹十疋  染付十巻  染絹十端  白布十端
    絹布十端  藍摺十端  色革十枚
   供米五石
   馬三匹(一匹鞍を置く)
 

6月30日 辛卯
  来月閏月たるに依って、今夜六月祓いを行わるべきや否やの事、籐内判官定員の奉行
  として、有職並びに陰陽道の輩に尋ね問わる。河内入道等申して云く、義解文の如き
  は、閏月に行わるべき事分明なり。和歌に云く、後のみそかをみそかとはせよてえり。
  その上治承四年・建久八年・建保四年、皆閏月に行わると。諸人これに一同す。資俊
  申して云く、両月行うの例これを存すと。然れども多分の義に就いて、行われずと。