1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

10月2日 辛卯 晴
  相州・武州御所に参り、小侍所に候せしめ給う。去る月二十四日の五更乾星動く事、
  司天の申す所一準せざるの間、日来その沙汰有り。今日忠尚・親職以下を召し聚めこ
  れを尋ね問わる。資俊申して云く、二三尺ばかり、等しく圓座の如く、東西南北に動
  揺すと。忠尚以下六人全く動かざるの旨これを申す。資俊頗る雌伏の気有り。仍って
  怠状を召さるべきの旨、各々これを訴え申すと雖も、関東に於いて例無きの上、申状
  の趣その沙汰に能わざるの由、武州申せしめ給うと。
 

10月8日 丁酉
  改元の詔書到来す。去る月十九日文暦二年を改め嘉禎元年と為すと。
 

10月14日 癸卯
  政所に於いて改元の吉書始めの儀有りと。
 

10月16日 乙巳 朝天陰 [明月記]
  駿河の守重時最愛の嫡男八歳、疱瘡にて死去す。その宅すでに穢す。悲歎の乳母夫婦
  (左衛門の尉)出家すと。
 

10月17日 丙午 陰
  京都の使者到来す。去る八日将軍家陸奥出羽按察使に任ぜしめ御うの由これを申す。
 

10月19日 戊申
  申の刻雨降る。雷数声。
 

10月20日 己酉 [百錬抄]
  大甞會御禊なり(姉小路東)。節下右大臣(實氏)、女御代右大将(家継)女、祭主
  代神祇権少副仲宣朝臣。宮主兼躬御禊を修す。
 

10月28日 丁巳
  去る月二十日、御禊行幸無為に遂行せらる。去る夜より主上疱瘡御不豫。凡そこの事
  洛陽流布し、諸人免かれずと。
 

10月29日 戊午 朝天陰 [明月記]
  駿河の守重時次男今日また夭す(武士馳せ留むと。六歳。後聞虚言)。