1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

12月11日 己亥
  宇佐宮神領の事、十一箇所没収地たり。その内四箇所はこれを返し付けらる。七箇所
  に於いては、その次いで無きに依って未だ返し付けらるるに及ばず。今日沙汰有り。
  縦え二十箇年を過ぎると雖も、自然の便宜出来するの時は、式條に拘わらず、御裁定
  有るべきの由と。
 

12月12日 庚子 朝陽晴 [明月記]
  関東山門に住す悪僧の交名召し給うべきの由、また急請恐れ有りと雖も、早速下向せ
  しむべきの由、重時の許に示し送ると。去る秋神輿を出し奉り並びに神人に不審の沙
  汰を致すの輩と。梨本五人、青蓮院七人。
 

12月15日 癸卯
  月蝕。
 

12月18日 丙午
  将軍家御不例の事、御疱瘡出現の気有るの由、良基朝臣これを申す。今夜また御祈祷
  等を始行す。子の刻に及び、平左衛門の尉盛綱武州の御使として御所に参る。申して
  云く、毎日御招魂祭を修せらるべきの由と。仍って先ず七箇夜奉仕すべきの旨、国継
  に仰せらると。
 

12月20日 戊申
  御不例の御祈りの為、御所の南庭に於いて七座の泰山府君祭を行わる。忠尚・親職・
  晴賢・資俊・廣資・国継・泰秀等これを奉仕す。黄昏に及び四角四境祭を行わる。御
  所の艮角(陰陽大允晴茂)、巽角(図書の助晴秀)、坤角(右京権の亮経昌)、乾角(雅
  楽の助清貞)、小袋坂(雅楽大夫泰房)、小壺(近江大夫親貞)、六浦(陰陽少允以平)、
  固瀬河(縫殿の助文方)。
 

12月21日 己酉
  御祈り等始行す。愛染王護摩は忍辱山僧正、十一面護摩は信濃法印道禅、不動供は摂
  津法眼行重、七曜供は助法印珍譽、天冑地府祭(文元朝臣)、如法呪咀並びに鬼気祭
  (親職)、土公祭(大膳権の亮道氏)。

[百錬抄]
  南都の衆徒蜂起す。春日の御賢木木津に着御す。去る夏大住庄と薪庄相論の事、聊か
  落居せしむの処、去る比八幡使大住庄に向かうの刻、また闘乱に及び、春日の神人を
  殺害するが故と。
 

12月22日 庚戌
  また御祈り等を行わる。仏眼は鳥羽法印光寶、金輪は内大臣僧都定親、金剛童子護摩
  は丹後僧都頼暁、霊氣道断祭は陰陽の助忠尚、雷神祭は相模権の守俊定等これを奉仕
  す。
 

12月23日 辛亥
  尊勝護摩一七箇日これを始行す。
 

12月24日 壬子
  重ねて御祈りの為、処々の本宮に於いて大般若経を転読せしめ、御神楽を修すべきの
  由仰せ下さる。雑掌人を付けらる。仍って面々使いを遣わす。勤仕すべきに依ってな
  り。
   伊勢内外宮(相州御沙汰)   石清水八幡宮(武州御沙汰)
   賀茂社(大炊の助入道沙汰)  春日社(長井判官代)
   日吉社(駿河入道)      祇園社(陸奥掃部の助)
   大原野社(武州御沙汰)    吉田社(毛利入道)
   北野社(武州御沙汰)     若宮(武州)
   熱田社(出羽左衛門の尉)
   熊野社(正月十五日以後この御祈りを始めらるべし)
    本宮(佐原三郎左衛門の尉) 新宮(備中左近大夫) 那智(湯浅次郎入道)
   この外
    尊星王護摩(宰相律師圓親) 不動護摩(荘厳房律師行勇)
    炎摩天供(宮内卿律師征審)
 

12月25日 [百錬抄]
  春日社の神木宇治に渡御するに依って、武士等橋を引き堅くこれを護る。蔵人頭左大
  弁為経朝臣御使として参向すと。
 

12月26日 甲寅 晴
  今暁御所の南庭に於いて如法泰山府君祭を行わる。大舎人権の助国継これを奉仕す。
  祭物を下さるるの上、御甲冑・御弓箭・御雙紙筥・御馬(鞍を置く)、これ等祭の庭
  に置かる。甲冑等はこれを焼き上げると。今日聊か御膳を聞こし食す。良基朝臣高名
  の由、武州殊に感じ仰せらる。且つは禄物(御劔と)に及ぶ。今夕御祈りを始行す。
  十一面護摩(鳥羽法印)、太白祭(法眼承澄)、北斗護摩(法印明弁)、御当年星供(法
  橋珍譽)等なり。

[明月記]
  昨日申の時より衆徒平等院の門前に在り。武士橋を引き河を夾み東西の岸に陣列す。
  衆徒来たり加わる。雲の如しと。
 

12月27日 乙卯
  重ねて御祈りの為、鶴岡八幡宮に於いて仁王百講を行わる。また相州・武州別して申
  請せらるるに依って、御祭等有るべし。属星祭(忠尚奉仕すべし。武州御沙汰)、天
  地災変祭(宣賢奉仕すべし。相州御沙汰)。次いで霊所祭を行わる。
   由比浦(大膳の亮資俊)   金洗澤(陰陽権の大允晴茂)
   固瀬河(主計大夫廣資)   六浦(前の右京の亮経昌)
   柚河(相模権の守俊定)   杜戸(雅楽大夫泰房)
   江嶋(備中大夫重氏)
  今夕大仏師康定(康運弟子)に仰せ、仏像を造り始め奉る。明後日二十九日造畢奉る
  べきの由と。
   千躰薬師像、一尺六寸
   羅ゴ星(忿怒の形相、青牛に乗り、左右の手に日月を捧ぐ)
   計都星(忿怒の相、龍に乗り、左手に日を捧げ、右手に月を持つ)
   御本名星薬師像
  夜に入り計都星祭を修せらる(文元朝臣これを奉仕す)。
 

12月28日 丙辰
  相州・武州御祭を申請せらる。忠尚・宣賢等、今日これを始行す。また三万六千神祭
  を修せらる。親職これを奉仕す。
 

12月29日 丁巳 雨降る
  酉の刻六波羅の飛脚参着す。申して云く、去る二十四日辰の一点、南都の衆徒春日社
  の神木を捧げ奉り、木津河の辺に発向するの間、在京の勇士等、勅定に依って禦ぎ留
  め奉らんが為、悉く以て馳せ向かう。これ八幡神人と春日神人と闘諍の刻、当社の神
  人多く以て疵を被るの間、訴え申さんが為なり。執柄家並びに籐氏の公卿皆以て閉門
  すと。即ち武州御所に参り給う。評定衆参進す。丑の刻に至り條々の沙汰を経らる。
  この事公家の重事たり。御使を差し進せ沙汰有るべきの由、議定をはんぬるの後飛脚
  帰洛す。
 

12月30日 戊午
  仏師康定去る夜尊形を造畢し奉る。これ千躰薬師・禄存星・羅計二星等なり。仍って
  今日早旦、卿法印良信の本坊に渡し奉る。即ち導師として開眼供養の儀を展ぶ。籐内
  判官定員、彼の坊に行き向かいこれを奉行す。両国司渡御す。美絹十疋・南廷一つを
  以て、布施物に充てらると。