1236年 (嘉禎2年 丙申)
 
 

2月1日 戊子
  御不例の余気散治せしめざる事、若くは土公祟りを成し奉るかの由、有職の人々これ
  を申すに依って、武州の御沙汰として、その祭を行わる。夜に入り御所に於いて、晴
  賢朝臣これを奉仕すと。今日、上野入道日阿御所に於いて下若等を進す。
 

2月2日 己丑
  亥の刻西方雷鳴。今日、相州御所に於いて経営す。武州・駿河の前司等参らる。盃酒
  数献、公私興を催すと。凡そこの事連日の儀たり。御不例殊なる御事無きに依ってな
  り。
 

2月3日 庚寅
  駿河の前司盃酒を進す。両国司参らる。兒童十七人召しに依ってその座に候す。夜に
  入り如法泰山府君祭を行わる。忠尚朝臣これを奉仕す。
 

2月10日 丁酉
  午の刻雷鳴・甚雨。
 

2月14日 辛丑
  右近将監多の好節和琴・太笛等を調進す。武州殊に自愛せしめ給う所なり。
 

2月19日 丙午 [百錬抄]
  春日社・興福寺・東大寺已下の扉等皆これを開く。衆徒の訴訟落居の故なり。
 

2月21日 戊申 [百錬抄]
  春日の御神木宇治より本社に還御す。社司・神人等少々扈従す。衆徒供奉せず。関東
  厳密の命有り。衆徒恐怖の思いを成すか。
 

2月22日 己酉
  伊豫の国宇和郡の事、薩摩の守公業法師の領掌を止め、常磐井入道太政大臣家の領に
  付けらるる所なり。これ年来彼の禅閤これを望み申せらると雖も、公業先祖代々知行
  す。就中遠江の掾遠保勅定を承り、当国の賊徒純友を討ち取る以来、当郡に居住し、
  子孫に相伝せしむること年久し。咎無くして召し放たるべからざるの由、頻りに以て
  愁歎す。御沙汰是非を顕し難し。左右無く仰せ切られざるの処、去る比禅閤の御書状
  重ねて参着す。この所望事行われざれば、老後の眉目を失うに似たり。今に於いては
  態と下向せしめ、所存を申さるべきの趣これを載せらる。御下向の條、還って事の煩
  いたるべきに依って、早く御管領有るべきの旨、今日彼の家司陸奥入道理繆と号すの
  許に仰せ遣わさると。
 

2月28日 乙卯
  亥の刻地震。今日六波羅の飛脚並びに大夫判官基綱の使者参着す。申し云く、去る十
  四日基綱木津河の北に向かう。使者を河の南(神木御座所)に遣わすの処、衆徒皆来
  臨するの間、御成敗の趣具に問答す。衆徒一々承伏す。仍って同二十一日神木を本社
  に帰座し奉る。翌日二十二日殿下御亭に三儀を行い宛らる。同じく御参内を刷うと。