1236年 (嘉禎2年 丙申)
 
 

12月3日 丙戌 晴
  京都の使者参着す。去る月二十二日将軍家民部卿に任ぜしめ御うと。
 

12月6日 己丑 霽
  大膳権大夫の奉行として、陰陽師等を召し、御所に於いて、歳末・年始の雑事の日時
  これを勘じ申す。御煤払いの事相論有り。文元朝臣申して云く、新造は、三箇年の内
  その憚り有るべしと。親職・晴賢等の朝臣云く、先達は指せる文無きと雖も、皆記し
  置く所なり。新造に至りては煤無きの故か。煤有らば払うべきかと。所詮この條證拠
  無し。然れば煤払い無きの御沙汰宜しかるべきかの由仰せ出さるるの間、各々子細を
  申さざるなり。夜に入り将軍家御馬三疋(皆鞍を置く)・砂金五十両・紺絹百端を弁
  僧正に遣わさる。これ明暁上洛すべきに依ってなり。匠作・武州已下の人々皆悉く餞
  物を遣わさるるなり。
 

12月7日 庚申 晴
  弁僧正上洛す。親厳僧正入滅の替わりとして、東寺長者に補すべきに依ってなり。
 

12月11日 甲午
  新丹後の守泰氏龍蹄を御所に進献す。国司の事賀し申すの由と。
 

12月19日 壬寅
  亥の刻武州の御亭に御移徙なり。日来御所北方に新造せらるる所なり。檜皮葺屋並び
  に車宿を建てらる。これ将軍家入御の為と。御家人等同じく家屋を構う。南門東脇は
  尾籐の太郎、同西は平左衛門の尉、同並び西は太田の次郎、南角は諏訪兵衛入道、北
  土門東脇は万年右馬の允、同西は安東左衛門の尉、同並びは南條左衛門の尉の宅等な
  りと。
 

12月23日 丙午
  夜に入り駿河の次郎の妻室(武州御妹)早世す。仍って武州御軽服の間、平左衛門の
  尉の小町宅に移住せしめ給うと。今夜太白辰星を犯す(相去ること二尺の所)。
 

12月26日 己酉
  去る十八日の除目の聞書到着す。武州左京権大夫を兼ね給う。師員主計の頭に任ず。
  また施薬院使丹波の良基朝臣正四位上に叙す。和気の清成朝臣に超越す。これ将軍家
  御疱瘡の時、医術を施すの賞なり。即ちこの趣尻付有りと。今日、北條の彌四郎小侍
  所別当職を辞し申さると。
 

12月29日 壬子
  佐渡の守基綱京都より参向す。南都静謐の條々の事これを申し入る。この事内外の計、
  偏に武蔵得業降圓の忠に依るの由これを申す。その趣六波羅の駿河の守重時の去る十
  一日の状に載すと。