1237年 (嘉禎3年 丁酉)
 
 

1月1日 癸丑 天晴、風静まる
  椀飯(匠作御沙汰)。
   御劔   駿河の前司義村(布衣)
   御弓箭  相模式部大夫朝直
   御行騰沓 佐原三郎左衛門の尉家連
   一の御馬(鞍を置く)相模の五郎     本間式部の丞
   二の御馬      佐原新左衛門の尉  同次郎左衛門の尉
   三の御馬      信濃次郎左衛門の尉 同三郎左衛門の尉
   四の御馬      駿河の太郎     本間次郎左衛門の尉
   五の御馬      相模の六郎     出羽左衛門の尉
 

1月2日 甲寅 霽
  今日の椀飯、左京兆の御分たりと雖も、御軽服に依って、孫子彌四郎殿これを沙汰せ
  らる。
   御劔   丹後の守泰氏
   御弓箭  左衛門大夫泰秀
   御行騰沓 上野七郎左衛門の尉朝廣
   一の御馬 遠江式部の丞    南條七郎左衛門の尉
   二の御馬 駿河四郎左衛門の尉 同五郎
   三の御馬 隠岐三郎左衛門の尉 同四郎左衛門の尉
   四の御馬 陸奥の太郎     原左衛門四郎
   五の御馬 陸奥の七郎     平左衛門三郎
 

1月3日 乙卯 天晴
  酉の刻雨下る。夜に入り南方雷鳴。今日椀飯(越州御沙汰)
   御劔   右馬権の頭
   御弓箭  城の太郎義景
   御行騰沓 筑後図書の助時家。
   一の御馬 遠江式部の丞    小井弖左衛門の尉
   二の御馬 上総の介太郎    同次郎
   三の御馬 伊賀六郎左衛門の尉 同太郎兵衛の尉
   四の御馬 信濃三郎左衛門の尉 隠岐四郎左衛門の尉
   五の御馬 佐原新左衛門の尉  同次郎兵衛の尉
 

1月6日 戊午 晴
  椀飯以後、小御所に於いて目勝の御勝負有り。女房を以て賭物を出さる。二條侍従・
  右馬権の頭・相模式部大夫・周防の前司・長井左衛門大夫・毛利蔵人・駿河大夫判官
  ・同四郎左衛門の尉・隠岐式部の丞・佐原新左衛門の尉等祇候す。
 

1月8日 庚申
  恒例の心経会なり。将軍家出御す。今日二所御奉幣の事有るべし。御沙汰に及ぶと。

[玉蘂]
  後七日御修法。二長者行遍これを修す。大僧正定豪俄に所労の由を申すが故なり。腰
  合期せずと。
 

1月11日 癸亥 晴
  椀飯以後御弓始め有り。
  射手
   一番 駿河の次郎      佐原次郎兵衛の尉
   二番 下河邊左衛門の尉   伊賀太郎兵衛の尉
   三番 本間次郎左衛門の尉  廣河の五郎
   四番 横溝の六郎      原の三郎
   五番 小笠原の六郎     松岡の四郎
 

1月13日 [玉蘂]
  別当(圓実)僧正上洛す。御斎会内論義に依ってなり。今夕の僧事、人数済々と。
 

1月14日 丙寅 朝間陰、夜に入り明月 [玉蘂]
  この日左府第二娘を迎えらる(この四五年頻りに以て催し召さること有り。必ず然る
  べからずと雖も、固辞するに能わず。ただ氏の大明神の冥鑒に任せ奉る。子細具記に
  遑あらず)。その儀最も密々をはんぬなり。

[高嗣記]
  今夜左丞相兼経(春秋二十八)、摂政殿(道家)御息女(仁子、御年二十七、故藻壁
  門院御同胞、第二御娘なり)に通せしめ給うべきなり。
 

1月17日 己巳
  将軍家(御束帯・御車)鶴岡八幡宮に御参り。晴賢朝臣御祓い。長井左衛門大夫陪膳
  たり。周防の前司御劔を取り、役人相模式部大夫に授く。佐々木八郎左衛門の尉御調
  度を懸くと。
 

1月22日 甲戌
  申の刻雷鳴。

[玉蘂]
  次いで予御前に参る。座主宮・仁和寺宮参らる。予これに謁す。山門の事示さるる旨、
  また宇治僧正一座宣下の事に依って、衆徒蜂起すと。これ然るべからず。委しく子細
  を知らざるか。